申命記

第1章1節~8節(はじめに・主の命令と約束)

2003年10月26日(日)

民数記は<荒野を旅する神の民の姿>を描いていました。続く申命記は、約束の地を目前にした神の民に対して、モーセが語り聞かせた説教が中心となっています(1~5節)。「いよいよ約束の地に入るぞ」と思っておられた方には少し肩透かしかもしれません。しかしこの申命記は<聖書中の聖書>とも呼び得る重要な文書であり、教会は古くからこの書を重んじてきました。――本日より申命記のみ言葉に、ご一緒に耳を傾けて行きましょう。御国の完成を待ち望みつつ、主イエスの御元へと急ぎつつ(8節)。

第1章9節~46節(役職者の任命・偵察隊の報告と民の不信・主の怒りと民の不服従)

2003年10月27日(月)

モーセは、今日この所に至るまでの全行程を振り返って、こう言います。「また荒れ野でも、あなたたちがこの所に来るまでたどった旅の間中も、あなたの神、主は父が子を背負うように、あなたを背負って下さったのを見た(31節)。」旧約聖書では珍しく、神様が父親に譬えられています。モーセにとって主なる神は遠い存在ではないのです。その背中の温もりを感じるほどに、主はイスラエルに近く、その御守りは力強く、民の全旅程を支えて来て下さったのです。エジプトを脱出する時も、海を渡る時も、荒野を行く時も、平野が続く時も、昼夜を問わず、主はイスラエルを背負って来て下さったのです。――私たちも教会の歩みと自らの人生を振り返りつつ「主は父が子を背負うように」と告白することができます。そしてその主の御手に、これからの私たちの歩みの全てをお委ねするのです。

第2章1節~37節(北上の命令・ヘシュボンの王シホンとの戦い)

2003年10月28日(火)

本日の聖書に「彼らに戦いを挑んではならない」という神のみ言葉が記されています(5,9,
18節)。しかし24節には「立ち上がって進み、・・シホンに戦いを挑み、占領を開始せよ」とのみ言葉が鳴り響いています。信仰生活は戦いの連続ですが、戦うに時があり、戦ってはならない時があるのです。――しかし注目は、王シホンに対するモーセの態度です。彼は、主から「戦え」と命じられていたのに友好条約を申し出たのです。これは一見、主の御心に反する行動と言えます。けれども、実際の信仰生活の歩みの上には、この様な場面があるのではないでしょうか。即ち、モーセは主の御心を尋ねつつ、シホンの出方を伺っているのです。結果「主が彼の心をかたくなにし、強情にした」ので条約締結は失敗に終わりました。モーセは王シホンと戦ったのです。今日一日、主が「戦え」と言っておられるのか「戦うな」と命じておられるのか、主の御心を尋ねつつ、主に従って行きましょう。

第3章1節~22節(バシャンの王オグとの戦い・ヨルダン川東岸地方の割り当て・進軍の命令)

2003年10月29日(水)

「あなたたちの神、主が二人の王に対してなさったことをすべて、あなたは自分の目で見た。主は、あなたがこれから渡って行くすべての王国にも同じようにされるであろう。彼らを恐れてはならない。あなたたちの神、主が自らあなたたちのために戦って下さる。」モーセは今、神の約束の確かさをヨシュアの心に刻み込みます。民の指導者に求められる第一の心得は「神がイスラエルのために戦って下さる」ということです。モーセは、その全生涯を通して味わい知らされた確信を、今、ヨシュアに手渡すのです。――私たち信仰者の最後の祈りは、後裔たちが信仰告白へと導かれ、神の国の世継ぎとなることです。そのために私たちは、神が為して下さった偉大な御業を後輩たちにも語り伝えていくのです。

第3章23節~29節(モーセの願い)

2003年10月30日(木)

「しかし主は、あなたたちのゆえに私に向かって憤り、祈りを聞こうとされなかった。」「私にも渡って行かせ・・」との祈りは、民の指導者として万感胸に迫る中、主にささげられた切実な叫びでした。しかし主はその祈りを受け入れられませんでした。あのゲツセマネの祈りが、主の十字架が浮かび上がってきます。「父よ、あなたは何でもおできになります。・・しかし、私が願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」

第4章1節~14節(モーセの勧告)

2003年10月31日(金)

「掟と法」とは十戒をはじめとする「主の戒め」のことです。主なる神様は、御自分の民に対して「あなたがたはこの様に生きて行きなさい」と、命の戒めを与えて下さいました。モーセはその主の恵みに感謝しつつ、誇らしくこう言っています。「あなたたちはそれを忠実に守りなさい。そうすれば、諸国の民にあなたたちの知恵と良識が示され、彼らがこれらすべての掟を聞くとき、『この大いなる国民は確かに知恵があり、賢明な民である』と言うであろう(6節)。」――現代は<相対主義の時代>と言われます。私たち人間はどの様に生きて行けば良いのか、それを決める<確かな規範>が見つからない時代です。そこでは、それぞれの者がそれぞれに生きて行って良いとされるのです。しかしその結果は、人生の方向を見失い、心の健康が失われ、無気力と虚無が蔓延しているのではないでしょうか。――「主の戒め」は私たちを生かす戒めです。私たちは「主の戒め」を行うことによって救われるのではありません。しかし主イエスによって救われた者は、喜んで主の御心に従って行こうと志します。「いつ呼び求めても、近くにおられる我々の神、主のような神を持つ大いなる国民がどこにあるだ ろうか。また私が今日あなたたちに授けるこのすべての律法のように、正しい掟と法を持つ大いなる国民がどこにいるだろうか(7-8節)。」

第4章15節~49節(偶像礼拝に対する警告・逃れの町・律法のまえがき)

2003年11月1日(土)

「しかしあなたたちは、その所からあなたの神、主を尋ね求めねばならない。」「その所から」、それは徹底的に打ち砕かれた所から、です。明日の礼拝に、共に備えましょう。

第5章1節~33節(十戒・神の言葉を取り次ぐ者)

2003年11月2日(日)

十戒が再び記されていますが、出エジプト記20章のものと比較してみて下さい。両者はほぼ同じですが、安息日に関しては多少違いがあります。先のものは「仕事をするな」との戒めが、神様が創造の御業を終えて、休まれたことに結び付けられていました。一方こちらでは、民全体の安息がエジプト脱出の御業に結び付けられています。――私たち人間にとって<本当の安息>とは一体何でしょうか。それは、私たちを捕えている諸々の支配から解き放たれて、神の御前に休みを得ることです。神様は、他人の目とその支配、心煩わされる問題、自分自身の思い、それら諸々の支配から私たちを解き放って下さいます。そして主キリストの御前に、私たちは真の安らぎを得る、それが本日、主の安息日です。

第6章1節~5節(唯一の主)

2003年11月3日(月)

ユダヤ教では現在でも4-5節のみ言葉が主の祈りのように礼拝で唱えられると言います。またキリスト教会の歴史においても申命記6章4-5節は特別に重要視されて来ました。『ハイデルベルク信仰問答』問4,25,94,103『はじめてのカテキズム』問5,19『学習用カテキズム』問94『ウェストミンスター信仰告白』第2章1節『ウェストミンスター大教理問答』問8,99,104『ウェストミンスター小教理問答』問5で、このみ言葉が取り上げられています。いかに教会の先達たちがこのみ言葉を重んじて来たかが分かります。「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」主イエスが全律法の中で最も重要な戒めと言われたみ言葉です。この機会に申命記6章4-5節を暗記し、そして、このみ言葉を生きていきましょう。

第6章6節~25節(唯一の主・主の命令を守ること)

2003年11月4日(火)

「子供たちに主の戒めのみ言葉を繰り返し教えなさい」と言われています。「家に座っている時も道を歩く時も、寝ている時も起きている時も」とまで言われています。そして子供が「我々の神、主が命じられたこれらの定めと掟と法は何のためですか」と尋ねる時には、あなたが受けた主の救いの物語を語り聞かせよ、というのです。――今日、十戒のみ言葉を子供たちに説き聞かせる必要があると思います。神様は、私たち人間に、どの様に生きて行きなさいと言っておられるのか、十戒はそれを明示しています。わが子に、教会学校の子供たちに、私たちが関わる全ての子供たちに、十戒のみ言葉を教えて行きたいと願います。それは、彼らが十戒を通して神の御心を知り、真の幸いを得ていくためです。

第7章1節~15節(七つの民を滅ぼせ・神の宝の民)

2003年11月5日(水)

申命記には、何度でも噛みしめ、深く味わいたいみ言葉が多くあります。本日の6~8節のみ言葉もそうだと思います。自分が教会へと招かれた日のこと、主から洗礼を授けられた日のことを思い起こし、今日のみ言葉を味わいましょう。「あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた。主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、あなたたちの先祖に誓われた誓いを守られたゆえに、主は力ある御手をもってあなたたちを導き出し、エジプトの王、ファラオが支配する奴隷の家から救い出されたのである。」――暗誦するまで味わい、身に着けたいみ言葉です。

第7章16節~26節(恐れるな)

2003年11月6日(木)

「あなたの神、主はこれらの国々を徐々に追い払われる。あなたは彼らを一気に滅ぼしてしまうことはできない(22節)。」現代を生きる私たちは、カナン人・アモリ人といった先住民と戦うことはないかもしれません。しかし私たちにも日々罪との戦いがあります。そして私たちは時として「一気に罪の力が滅ぼされたら・・・」と思うのかもしれません。しかし本日のみ言葉は、主なる神様が徐々に恵みの支配を推し進められることを語っています。そして「主の恵みの支配は必ず完成する」とも確約されているのです。――今日一日を神の民として生きようとする時、様々な誘惑や戦いが起ってきます。しかし恐れることはありません。主は今日も、悪しき力に勝ってあなたをご支配下さるのです。私たちは、このお方の恵みのご支配により頼み、いよいよ神の民として生きれば良いのです。

第8章1節~10節(神の賜る良い土地)

2003年11月7日(金)

振り向けば、そこには荒野の四十年の旅路があります。主はそこで、あなたを試し、苦しめ、飢えさせられました。それは、主にのみ頼ることを教え、人を本当に生かすのは主の口から出るみ言葉であることをあなたに知らせるためでした。――そして主は、今、あなたを神の御国に導き入れようとしておられます。そこは良い土地、すべてが主の恵みに満ち、主はあなたの目の涙をことごとく拭い取って下さるのです。もはや死はなく、悲しみも嘆きも労苦もない。天地万物は新しくなったのです。――今日のみ言葉は<神の民の過去・現在・将来>そして<神の恵みの導きの過去・現在・将来>を語っています。

第8章11節~20節(主を忘れることに対する警告)

2003年11月8日(土)

「主を忘れることがないように」と戒められています。それは特に、主の恵みによって豊かにされた者たちに向かって語られています。「自分の力と手の働きでこの富を築いた」などと考えてはならない、と。私たちは明日、恵みの主を思い起こし、主を礼拝します。

第9章1節~29節(かたくなな民)

2003年11月9日(日)

「城壁は天に達し」と言われています。イスラエルは今ヨルダン川を渡り、約束の地に踏み入ろうとしていますが、そこには強大な敵が立ちはだかっているのです。モーセはここに神の勝利を確約しますが、その言葉は私たちの胸を刺し貫きます。――あなたは「私が正しいので、主は私を導いてこの土地を得させてくださった」と思ってはならない。主があなたを約束の地に導き入れるのは、あなたが正しいからではなく、敵が主に逆らうからであり、先祖に誓われた誓いを誠実に果たされるからだ。あなたは荒野で主を怒らせたことを忘れてはならない。――私たちの救いも同様です。私たちが神の国に入るを得るのは、私たちが正しいからではありません。むしろ、私たちには度重なる不従順と不信仰の歴史があります。救いはひとえに神の恵みによるのです。あなたが今日、神の民の一員とされているのは、ひとえに聖霊の導きであり、主イエスの執り成しの祈りによるのです。

第10章1節~22節(再び戒めが授けられる・神が求められること)

2003年11月10日(月)

申命記は繰り返し語っています。「主を愛し、心を尽くし、魂を尽くしてあなたの神、主に仕え」なさい、と。小松教会の直接の先輩に当たるアメリカ合衆国長老教会は、子供たちに向けて次のような信仰問答を作成しました。(問)どのようにして神様を愛するのですか。(答)神様を礼拝し、人を愛し、神様がお造りになったものを大切にすることによってです。――神様を神様として拝み、神に造られた人間を愛し、神がお造りになった動物・植物・この世界を大切にすること、それが神様を愛することだと告白しています。今日一日、神に愛され、神を愛し、神と共に、人と共に、自然と共に、生活しましょう。

第11章1節~32節(主の御業・祝福と呪い)

2003年11月11日(火)

説教者モーセは「主のなさった大いなる御業をすべて、あなたたちは自分の目で見てきた(7節)」と語ります。ファラオの上に臨んだ主の御業、荒野の40年を支え抜いてくださった主の導き、ダタンとアビラムに対する主の裁き(民16章)、これら主の大いなる御業の生き証人としてあなたがたは立てられている、というのです。そしてモーセは更に、主の御業の証人として主の戒めを守り、子孫に御言葉を語り聞かせよ、と命じているのです。――私たちもまた、地の塩・世の光として主によって立てられています。主の十字架と復活の御業を証しし、子孫に御言葉を語り聞かせる使命が与えられています。どうぞ主よ、「私のような者は主のお役には立たない」と思う私たちの愚かさを取り除いて下さい。自分自身の何かを世に示し、それを残そうとする誘惑から私たちを守り、あなたのご栄光を映し出す土の器とさせて下さい。そして、私たちの後裔たちを新たに興して下さいますように。

第12章1節~31節(礼拝の場所・犠牲の肉と血・異教の礼拝に対する警告)

2003年11月12日(水)

今日、世界が混乱している原因の一つは、それぞれがそれぞれの正しさを主張して生きていることにあります。誰しも自分が間違っているとは思いたくありません。それぞれに自分が正しいと思って生きているところがあります。しかしその様な私たちに対してみ言葉は告げています。「あなたたちは、我々が今日、ここでそうしているように、それぞれ自分が正しいと見なすことを決して行ってはならない(8節)」と。更に「こうして主が正しいと見なされることを行うなら、あなたも子孫も幸いを得るであろう(25節)」と。――この聖書通読運動を通して「主が正しいと見なされること」を知っていきたいと思います。そして、聖霊の助けにより、主の御心と一つにされて生きて行けるよう共に祈りましょう。

2003年11月13日(木)

申命記が語る中心メッセージの一つは「神様を礼拝する場所は神様がご指定なさる」ということです。本日の5節のみ言葉がそれです。「必ず、あなたたちの神、主がその名を置くために全部族の中から選ばれる場所、すなわち主の住まいを尋ね、そこへ行きなさい。」このみ言葉は、神様が世界のあらゆる場所に現臨なさることを否定するものではありません。そうではなくて、神様は私たち人間に出会おうとされて<特定の場所>を用意してくださるのです。――今日、神ご指定の場所は<キリストの教会>です。教会は、主によって召された者たちの集いであり、神の住まいたもう家であり、そこで神様は私たち人間に出会ってくださるのです。――「あなたは、主の住まいを尋ね、そこへ行きなさい。」

第13章1節~19節(異教の礼拝に対する警告・他の神々の礼拝に対する警告)

2003年11月14日(金)

本日のみ言葉は意外なことを指摘しています。即ち、私たちにとって最も身近な存在、兄弟・息子・娘・愛する妻(夫)・親友が、あなたを真の神から引き離す誘惑者になり得る、というのです。主を愛し、主にのみ仕えていく生活が、いかに誘惑多きことかを思わずにおれません。しかしそれは「これも誘惑者か」と疑心暗鬼になる生活ではありません。主に固く結ばれていく生活です。そして、そこにこそ、人との本当の交わりもあるのです。

2003年11月15日(土)

「預言者や夢占いをする者」は現代にも実在します。彼らは「あなたを苦しめている様々な問題を解決します」と約束します。人間の幸福を約束し、人々の暮らしを良くしてみせると宣言するのです。否、それどころか実際に「しるしや奇跡が言ったとおり実現」することさえ起こるのです。それ故、彼らが偽り者であるかどうか、実際は大変見分けにくいのです。しかし私たちには、それが聖霊の御業か悪霊の仕業か、見分ける一つの基準が与えられています。神に全栄光を帰しているか、自分(たち)に栄光を帰しているか、です。聖霊なる神よ、私たちを助け、明日、主に全栄光を帰する真の礼拝に与らせてください。

第14章1節~29節(禁止されている行為・清い動物と汚れた動物・収穫の十分の一に関する規定)

2003年11月16日(日)

申命記は<神様とイスラエルは特別な関係にある>と語ります。神様はイスラエルに呼びかけておられます。「あなたたちは私の子らである」と。「あなたは私の聖なる民である、私の宝の民である」と。この神の愛に対して、イスラエルの方でも全身全霊をもって応えるようモーセは呼びかけています。それが食物規定であり、十分の一の献げ物なのです。今週一週間、神様との特別な関係、神に愛され、神を愛し返す民として生きましょう。

第15章1節~23節(負債の免除・奴隷の解放・初子の規定)

2003年11月17日(月)

「七年目には相手の負債を免除しなさい。奴隷も自由の身にしなさい」と命じられています。そしてこの戒めは、自分たちをエジプトから導き出し、祝福して豊かにして下さった主の救いの御業に根ざすものです。――私たちは、自分が損したことと相手の借りを覚えていて、それを心に蓄えているところがあると思います。また、相手を自分の思い通りにしようとする支配欲からなかなか自由になれないことがあります。そしてその時私たちは主によって救われ、自由にされた喜びから遠ざかっているのです。――パウロは語りました。「あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。即ち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです(コリント二8:9)。」十字架上の主イエスは、その命のすべてを注ぎ出し、罪の赦しと永遠の生命をあなたに与えて下さいました。今日一日、この十字架の主を仰ぎ、豊かにされ、喜んで与える自由に生きて行きましょう。

第16章1節~17節(三大祝祭日)

2003年11月18日(火)

本章を読むと、神様が礼拝のために<時と場所>をお定めになることがよく分かります。即ち本章には「主が選ばれた場所」という言葉が六回繰り返されており、時についても1,9,13,16節で定められています。――では、神様がその様にして主催される礼拝において一体何が行われるのでしょうか。それは、主の救いの御業を思い起こし、共同体全体で「喜び祝う」ことです。「息子、娘、男女の奴隷、町にいるレビ人、また、あなたのもとにいる寄留者、孤児、寡婦などと共に喜び祝いなさい(11,14節)。」――神様は、日曜日に教会で行われる礼拝へとあなたを招いておられます。そこで私たちは、老若男女を問わず、国籍人種を超えて、皆で主の救いの御業を思い起こし、主を喜び祝うのです。

第16章18節~第17章20節(正しい裁判・正しい礼拝・上告について・王に関する規定)

2003年11月19日(水)

約束の地における<神の民の秩序>が予告されています。即ち神様は、正しい裁きをもって民を裁かせるために、裁判人と役人を置くよう命じておられます。また裁判が困難を極める場合「レビ人である祭司およびその時、任に就いている裁判人のもとに」上告するよう命じられています。そして神様は更に、民を治める王についても予告しておられます。裁判人・役人・祭司・王、これらの権威は、神の民を良く治め、その秩序を守るために立てられた者たちなのです。しかし注目しましょう。これらすべての権威は、聖書のみ言葉の権威の下に置かれているのです。「それ(聖書)を自分の傍らに置き、生きている限り読み返し、神なる主を畏れることを学び、この律法のすべての言葉とこれらの掟を忠実に守らねばならない(19節)。」――神様は今も、教会に牧師・長老をお立てになっておられます。それは、彼らの権威によってではなく、聖書のみ言葉によって、神の民を良く治め、その秩序を保たせるためです。

第18章1節~8節(レビ人および祭司に関する規定)

2003年11月20日(木)

レビ人はイスラエルの中にあって特殊な存在です。彼には嗣業の土地が割り当てられていません。「主の言われるとおり、主が彼の嗣業である」からです。またその生活は<民の主への献げもの>によって支えられます。更にレビ人は「望むがままに主の選ばれる場所に移り」住むとされています。――今日の牧師職は、レビ人のそれに多く重なります。主によって立てられた牧師のためにお祈りください。そして共に主に仕えましょう。

第18章9節~14節(異教の習慣への警告)

2003年11月21日(金)

聖書は占いを禁じています。しかしそれは何故でしょう?――本日の聖書に出てくる「占い師、卜者、易者、呪術師」とは、何らかの形で<あなたの将来>を告げる者たちです。また「口寄せ、霊媒、死者に伺いを立てる者」とは、何らかの形で<死んだ人間>を呼び出す者たちです。即ち彼らは<死後の世界>とも交流可能な力を持つとされるのです。それに対して聖書は「<あなたの将来>と<あなたの死後>のすべては、主なる神様の御手のうちにある」と告げています。「だから、占いに頼る必要などありません、恵みの神に全幅の信頼を寄せて良い」と聖書は語るのです。――主イエスは言われました。「あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである。まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。だから、明日のことを思いわずらうな。明日のことは、明日自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である(マタイ6:32-34)」と。

第18章15節~22節(預言者を立てる警告)

2003年11月22日(土)

モーセが15節に告げている預言者とは主イエス・キリストのことです。主イエスは神の言そのものとして地上に来て下さいました。それゆえ今日の預言者である牧師は、この主を取り次がねばなりません。明日、私たちは共々に、主イエスの御前に跪きましょう。

第19章1節~21節(逃れの町・地境の移動・裁判の証人)

2003年11月23日(日)

神様は「意図してでなく、積年の恨みによるのでもないのに、隣人を殺してしまった者が逃れて生き延びうる」ために、逃れの町を設けられました。しかもこの町の建設は何度も繰り返し命じられています(出エジ21:13,民数35:9,申命4:41,ヨシュア20章)。しかしその一方で「隣人を憎み、待ち伏せして襲いかかって打ち殺し」た場合は「復讐する者の手に引き渡して殺させねばならない」と言われています。即ち神様は<殺意のない偶発的な事件>と<憎しみから出た計画的な殺人>とを峻別しておられるのです。――本章にはこの他に地境の問題、裁判における証言の問題が取り上げられています。神様がいかに公正な判断を愛し、人間の生命・財産・名誉を保護しておられるかが良く分かります。今週一週間、神様の公正な義に守られて、私たちもまた公正を愛し、生活していきたいと思います。

第20章1節~20節(戦争について)

2003年11月24日(月)

ウェストミンスター信仰告白は次の様に告白しています。「キリスト者が為政者の職務に召される時、それを受け入れて遂行することは合法的である。職務の執行に当たって、彼らはそれぞれの国の健全な法律にのっとり、特に信心と正義、平和の維持に努めるべきである。それで、その目的のために為政者は、正当で必要な場合には、新約の下にある今でも、合法的に戦争を行うことができる。」「その目的のために!」この一事に、私たちの祈りは集中します。人間の恐るべき罪の現実があることをしっかり受け止めつつ(1節)。

第21章1節~9節(野で殺された人)

2003年11月25日(火)

犯人不明の殺人事件があった場合です。死体の発見現場から最も近い町の住民は、雌牛を犠牲としてささげなければなりません。しかしそれは何故でしょうか?――この様な事件では犯人不明のために被害者は浮ばれないことになります。神様がかつて言われたように<血の叫び>が大地から天へと轟くことになるのです。そこで、犯人に代わって、住民の手により、罪の赦しの犠牲がささげられるのです。――ここには「イスラエルに罪が発生した場合、必ずそれを贖わねばならない」という信仰が一貫して流れています。主の十字架の死、その贖いの徹底的なことを思い、今日、主なる神の元へと立ち返りましょう。

第21章10節~21節(捕虜の女性との結婚・長子権について・反抗する息子)

2003年11月26日(水)

捕虜の女性に対する扱いと長子権を巡る問題。ここには人間の身勝手さが濃厚にあらわれていると共に、それだけ一層、人を偏り見ない<神の公正な義>が強く示されています。――次にイスラエルの子供たちに関する戒めが続いています。これを読んでギョとしない人は恐らくいないでしょう。しかし、ここで語られていることの中心は、子供たちを信仰的に養い導くのは共同体全体の責任である、ということです。主の教会に連なる子供たちが受洗・信仰告白へと導かれるよう、教会全体で祈り、彼らを導きましょう。

第21章22節~23節(木にかけられた死体)

2003年11月27日(木)

「木にかけられた死体は、神に呪われたものだからである。」この旧約の御言葉は、後にパウロによって引用され、十字架の主を指し示す言葉となりました。「キリストは、私たちのために呪いとなって、私たちを律法の呪いから贖い出して下さいました。『木にかけられた者は皆呪われている』と書いてあるからです(ガラ3:13)。」――私たちは、律法の実行に頼る時、呪われています。また律法の全てを行わない時、私たちは呪われています。要するに、神の御心(律法)を実行しているか否かによるならば、私たちは皆呪われているのです。しかし私たちの主は、律法によっては呪われている私たちを、その呪いから贖い出して下さいました。あの十字架の上で、主自らが律法の呪いとなって下さったのです。
今や、私たちは律法の呪いの下にはいません。神の御心を行い得ているか否かによって呪われたりはしないのです。主にあって、罪赦された自由と喜びに生きて良いのです。

第22章1節~第23章1節(同胞を助けること・ふさわしくない服装・母鳥と雛鳥・屋根の欄干・混ぜ合わせてはならないもの・衣服の房・処女の証拠・姦淫について)

2003年11月28日(金)

本章には神様の細やかな配慮が良く示されています。例えば<母鳥と雛鳥の戒め>では、雛鳥や卵を取ること自体は許されています。しかしそれをする場合には、母鳥を追い払ってからだ、と言われているのです。なぜか。母鳥を悲しませないために、子を失う悲痛を味わわせないために、ということです。――人間の親ばかりでなく鳥の親までをも配慮なさる神様は、ご自身の愛する御子を十字架へとお遣わしになった神様です。それは、私たちが律法の呪いから解き放たれて、神と共なる喜びに生きるためです(21:22~23参照)。

第23章2節~9節(会衆に加わる資格)

2003年11月29日(土)

「睾丸のつぶれた者、陰茎を切断されている者は主の会衆に加わることができない(2節)。」この御言葉と使徒言行録8:26~40を合わせて読んでみて下さい。――ここに登場するエチオピア人の高官は熱心な求道者でした。けれども彼は、主を礼拝する会衆に加わることができません。彼は宦官だったのです(上記2節)。しかしこの高官は、遠路はるばるエルサレム神殿まで旅してきた人であり、その帰路にあってはイザヤ書を読んでいるほどの熱心さでした。そこへ、聖霊によってフィリポが遣わされてきました。宦官は、フィリポの導きにより、主の十字架と復活の福音を知らされます。即ち彼は、今日この日、主キリストが<律法による隔ての壁>を取り除いて下さったことを悟ったのです。――「ここに水があります。洗礼を受けるのに、何か妨げがあるでしょうか。」高官の、喜びに満ちた、主の救いに対する確信の声です。明日、あなたが主の会衆に加わることを許された話です。

第23章10節~26節(陣営を清く保つこと・逃亡奴隷の保護・神殿で禁じられていること・誓願・人の畑のもの)

2003年11月30日(日)

出陣して陣を張る際、身を汚した者は日没まで陣営の外に出ておらねばならず、トイレも陣営の外に設置しなければなりません。その理由は、主が陣営の中を歩まれるからです。今日から始まる一週間、私たちは神の民の陣営にあって、この世の戦いをともにします。主なる神様がこの陣営の中を歩まれます。私たちは、主に守られ、主の戒めに生きて行きましょう。――16-17節:あなたのもとに逃れてきた人を「虐げてはならない。」18-19節「主のいとわれるもの」20-21節「同胞には利子を付けて貸してはならない。」22-24節「唇に出したことはそれを守り、口で約束した誓願は、あなたの神、主に誓願したとおりに実行しなさい。」25-26節:神様が兄弟姉妹に与えられた賜物に、あなたも共に与りなさい。ただし、それは兄弟姉妹に与えられた賜物であることを忘れずに。

第24章1節~22節(再婚について・人道上の規定)

2003年12月1日(月)

相手に対する深い思いやりが求められています。新婚家庭の兵役免除、挽き臼や寡婦の着物を質に取ってはならない、誘拐犯に対する刑罰、雇い人への日給、穀物や果物の落穂は「寄留者、孤児、寡婦」のために残しておくこと、これらのことを神様は求めておられるのです。そして「あなたが隣人に何らかの貸し付けをする時は、担保を取るために、その家に入ってはならない」とも戒められています。「担保はどこだ」と、横柄な態度で家に上がり込み、物色してはならない。「外にいて、あなたが貸す相手の人があなたのところに担保を持って来るのを待ちなさい」と主は言われるのです。何とこまやかで、具体的な戒めでしょうか。この戒めを求められる主は、私たちの応答を戸口に立って待っておられる方です。「見よ、私は戸口に立って、たたいている。だれか私の声を聞いて戸を開ける者があれば、私は中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、私と共に食事をするであろう(ヨハネ黙示録3:20)。」主イエスは、あなたがあなたの全存在を神にお返しするのを待っておられます。永遠の恵みの借金の担保として、あなた自身を神に差し出すのを主は待っておられるのです。今日の一日(ひとひ)を 生きる私たち自身を、主に献げましょう。

第25章1節~19節(鞭打ち・脱穀する牛の保護・家名の存続・組み打ちの場合・正しい秤・アマレクを滅ぼせ)

2003年12月2日(火)

神様の慈しみと義に基づく戒めです。鞭打ちの回数を制限せよ、寡婦が出ないように、夫の喧嘩に妻が介入したら?・・、公正な秤を用いよ。いずれも人生と生活の具体的な場面に関わる戒めです。しかしここに一つ、ユニークな戒めが挟まっています。「脱穀している牛に口籠を掛けてはならない。」神様は動物に対しても慈しみをお忘れでないのです。一生懸命働いている牛には食べる自由を与えなさい、と主は言われるのです。――申命記は<弱い者を顧み、公正な義で守られる神>を語っています。また、その神様は動物をも顧みられるというのです(5 :14参照)。それなら、まして人間であるあなたを、です。

第26章1節~19節(信仰の告白・神の民)

2003年12月3日(水)

5~10節はイスラエル共同体による信仰告白です。ここには「わたし」という言葉と「わたしたち」という言葉が同時に語られています。それは、神様の御前における信仰告白は、共同体全体の行為であると同時に私個人の行為でもあるからです。イスラエルは共同体全体で、自分たちがいかに弱く小さい存在であったかを告白し、そして、主なる神様がいかに憐れみ深く、力強い御手をもって導いて下さったかを告白します。彼らは共同体全体で主の御前にひれ伏し、主を喜び祝い、助けを必要としている人々に施しをするのです。
今日(こんにち)私たちは、全世界の兄弟姉妹と共に、使徒信条(又はニカイア信条)を神の御前で告白します。そして、神を喜び祝い、人に仕えていくのです。神様は今日も、主キリストのゆえに言って下さいます。「あなたは、あなたがたは、私の宝の民である」と。

第27章1節~26節(石に掟を書き記せ・呪いの掟)

2003年12月4日(木)

申命記は<神の呪いと祝福>を明確に語っています。偶像を崇拝する者、父母を軽んじる者、盲人を道に迷わせる者、社会的弱者の権利をゆがめる者、近親相姦する者、獣姦する者、隣人を殺害する者、それは神の呪いの対象です。――神様が正しい裁きの目で私たちをご覧になったら、私たちは神の呪いに相当するより他ありません。主の戒めに従って生きたいという意思はあっても、それに背く罪が我が内に働いています。ああ、私たちはどうしたら良いのでしょうか。「木にかけられた死体は、神に呪われたものだからである(21:23)」との御言葉が一際強く鳴り響いてきます。主イエスは、あの十字架の木の上で、私たちのために呪いとなって下さいました。それは、古い私が日々主と共に死んで、新しい私が甦るためです。今日一日、主にあって、罪に死に、神に甦ることを祈りましょう。

第28章1節~68節(神の祝福・神の呪い)

2003年12月5日(金)

9節「もし、あなたがあなたの神、主の戒めを守り、・・・。」この一事に、神の永遠の祝福と呪いがかかっています。――福音、それは、主イエスがこの一事を完全に生き切られ、神の永遠の祝福を全人類に獲得されたこと、と同時に、主御自身が神に呪われて裁きの陰府に降られたことです。主の十字架は神に呪われた地獄、主の復活は神の永遠の祝福です。

第28章69節~第29章12節(モアブで結ばれた契約)

2003年12月6日(土)

「今日、あなたたちは、全員あなたたちの神、主の御前に立っている。部族の長、長老、役人、イスラエルのすべての男子、その妻子、宿営内の寄留者、薪を集める者から水をくむ者に至るまでいる。」明日、主の御前に立つ、全世界の教会の姿です。アーメン。

第29章13節~28節(モアブで結ばれた契約)

2003年12月7日(日)

信仰生活に一つの危機があります。それは<神の呪い>に対して無感覚になることです。今の自分のあり様が神の御心に適っていないのに、<神の呪い>を思わず「神は祝福!」と言ってうそぶくことです。18節「もし、この呪いの誓いの言葉を聞いても、祝福されていると思い込み、『わたしは自分のかたくなな思いに従って歩んでも、大丈夫だ』と言うならば、潤っている者も渇いている者と共に滅びる。」――私たちが、神の呪いを招き、神の聖霊を悲しませ、恵みの賜物と慰めを取り去られることがあり得ることを、確かに知っておきたいと思います。主よ、どうか我らを憐れみ、み言葉と聖霊をお与えください。そうして、私たちの心を、あなたに向かって柔らかにしてください。アーメン。

第30章1節~20節(モアブで結ばれた契約)

2003年12月8日(月)

「あなたの神、主はあなたの運命を回復し、あなたを憐れみ、あなたの神、主が追い散らされたすべての民の中から再び集めて下さる。たとえ天の果てに追いやられたとしても、あなたの神、主はあなたを集め、そこから連れ戻される。」私たち人間と神様との間に存在する距離! しかし神様にとって、連れ戻すことが不可能なほど遠い距離は存在しないのです。神様は、銀河の果てからでも、速やかにあなたの所に来てくださる方です。

本日の御言葉は、あの放蕩息子の譬えを思い起こさせてくれます。主イエスがお語りになった譬え話、「神に立ち帰れ」との招きです。主イエスがこの世に来られ、今や「御言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にある(14節)」のです。たとえ天の果てに追いやられたとしても!「立ち帰れ」と呼ばわる主の御声が、今日も鳴り響いています。

第31章1節~13節(ヨシュアの任命・7年ごとの律法の朗読)

2003年12月9日(火)

今、モーセからヨシュアへと聖なるバトンが手渡されます。その際、先輩から後輩へと信仰の言葉が受け継がれます。「強く、また雄々しくあれ。恐れてはならない。彼らのゆえにうろたえてはならない。あなたの神、主は、あなたと共に歩まれる。あなたを見放すことも、見捨てられることもない。」この言葉は、続くヨシュア記全体にこだまする信仰の言葉となります。――私たちの信仰は、元来独創的なものではなく、本質的に先人から受け継がれてきたものです。パウロも言っています。「最も大切なこととして私があなたがたに伝えたのは、私も受けたものです。即ちキリストが、聖書に書いてあるとおり私たちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです」と。――信仰に生きる喜びは、独創性を誇ることではなく、信仰の父母を敬い、時代・国籍・人種を超えた<公同信仰>に生きる喜びです。「我は、聖なる公同の教会を信ず。アーメン。」

第31章14節~29節(神の最後の指示)

2003年12月10日(水)

モーセはここで、神様から死期が近づいたことを告げられています。指導者としての任務はヨシュアに受け継がれていきます。また「約束の地に踏み入ることはできない」と主から既に告げられています。そして今、「あなたの死後、イスラエルは主なる神に背くであろう」と予告されているのです。「何という過酷な最後!」と私たちは思います。けれどもモーセには、過酷を味わっている者の姿は見出せません。むしろ彼は、最後までその与えられた務めを果たしているのです(24節)。なぜでしょうか。なぜ彼は、絶望とも思える最後に、なおその信仰の姿勢を保つことができるのでしょうか。その秘密は、モーセその人の生涯が、自己追求の生涯ではなく、神の目的のために献げられた生涯であったことにあります。主イエスは言われました。「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである」と(マルコ8:35)。

第31章30節~第32章52節(モーセの歌・モーセの最後の勧告・ネボ山に登れ)

2003年12月11日(木)

「主は荒れ野で彼を見いだし、獣のほえる不毛の地でこれを見つけ、これを囲み、いたわり、御自分のひとみのように守られた(10節)。」主なる神様は、荒涼たる荒れ野であなたを見いだされました。獣のほえる不毛の地であなたを見つけ、あなたを慈しみで囲み、いたわり、御自分のひとみのように守られたのです。それが、あなたが教会へと招かれた日、飢え渇くあなたに御言葉を与えて下さった日々、私たちの今日一日の歩みです。

第33章1節~29節(モーセの祝福)

2003年12月12日(金)

12節「主に愛される者はその傍らに安んじて住み、終日、神に身を寄せて、その御守りのもとに住まう。」私たちは知っています。この地上には<心から安んじて住める居場所>など何処にもないことを。しかし主は十字架にかかられる直前に言われました。「私の父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと行ったであろうか。」義人ではなく主に愛された罪人に打ち開かれた、神の御国です。

第34章1節~12節(モーセの死)

2003年12月13日(土)

人間の若さとは何でしょうか?また本当の元気とは何でしょうか?聖書は証ししています。「モーセは死んだとき百二十歳であったが、目はかすまず、活力もうせてはいなかった。」それは<神を見つめる眼差し>であり<躍動する神との祈り>です。モーセは、神様との関係において、なお瑞々しく、力に満ちているのです。彼は今、その霊の眼を打ち開き、約束の地カナンの全貌を仰ぎ見ます。――明日私たちは、若さと力の源なる聖霊を受け、神の国を仰ぎ見ます。そして、私たちの若い後裔たちのためにも祈りをささげるのです。