サムエル記下

第1章1節~27節(ダビデ、サウルの死を知る・哀悼の歌「弓」)

2004年4月4日(日)

戦場から一人の若者が走ってきました。彼は地にひれ伏し、ダビデに戦況を報告します。 サウル王の死を告げ、王が身に付けていた王冠と腕輪を差し出しつつ彼は言います。 「御主人様に持って参りました。これでございます。」 彼はダビデから「でかしたぞ」とお褒めの言葉を頂けるものと信じ切っています。 なぜなら、目の前の主君は散々サウル王に苦しめられてきた方だからです。 ところが、ダビデはこれを喜ぶどころか、その顔色は一変し、夕暮れまで王の死を悼んで泣き続けます。 そしてダビデは、サウル王に止めを刺した若者を呼び出し、従者に「この者を討て」と命じたのです。 ――なぜでしょうか。なぜダビデは、若者の報告に対して死をもって報いたのでしょうか。 その理由は14節に示されています。「主が油を注がれた方を、恐れもせず手にかけ、殺害するとは何事か。」 ダビデは最後の最後までサウルのことを「主が油を注がれた方」と信じていたのです。 ――私たちは、主にある兄弟姉妹に対して、ダビデと同じ畏れを覚えることが求められています。 この兄弟は主が聖霊を注がれた存在、この姉妹は主キリストの血が注ぎかけられている存在。 それが、私たちの、お互いに対する聖なる畏れであり、兄弟愛の唯一の基盤なのです。

第2章1節~7節(ダビデ、ユダの王となる)

2004年4月5日(月)

「ユダの人々はそこに来て、ダビデに油を注ぎ、ユダの家の王とした。」 ダビデ王の即位式!この日が来ることを、信じて疑わなかった人が一人でもいたでしょうか。 いなかったと思います。ダビデ自身にも、疑った日々があったに違いありません。 しかし主なる神様は「あなたを王として立てる」との約束を決してお忘れになりませんでした。 そして歴史的事実として今日この日を与えて下さったのです。 ――私たちの思い煩いや不安の大部分は“将来に関わる事”だと思います。 「自分はこれからどうなって行くのだろうか。」「私たちの国はこれからどうなっていくのか。」 そういう不安が私たちにはあります。けれども、その様な私たちに対して聖書は「あなたの将来は神様の御手の中にある」と確言します。 私たちは、不安に怯える自分そのものを、神様の御手の中に委ね切って良いのです。

第2章8節~第3章5節(イスラエルとユダの戦い・ヘブロンで生まれたダビデの息子)

2004年4月6日(火)

ダビデが王として立つも、なお問題は残っていました。 サウルの側近アブネルは、サウルの息子イシュ・ボシェトを擁立し、家臣と共に武装蜂起します。 一方、ダビデ側の将軍ヨアブも家臣と共に出陣します。結果、この度も両軍に多大な犠牲が出ました。 ――この悲惨の原因はどこにあったでしょうか。 それは、主が誰を王に立てておられるのか、その主の御心を思わないで勝手にアブネルが動いたからです。 教会に生きる私たちには、牧師・長老・信徒それぞれがどのような役割に立てられているかを認識し、 その秩序を守って行くことが求められています。それを無視する時、本日の聖書が示す悲惨が起こるのです。

第3章6節~39節(アブネル、ダビデの側につく・アブネル、暗殺される)

2004年4月7日(水)

弟の仇を取りたかった兄ヨアブ。彼はアブネルを物陰に誘い込み殺害します。 しかしダビデは、このヨアブの仕業を主の御心に適わぬ事とし、故人に対する追悼の歌を歌いました。 私たちは仇を討つヨアブにある種の同情を覚えると思います。「それはある意味では仕方のない事ではなかったのか」と。 しかし聖書は、ヨアブの姿に人間の罪を見詰めています。 即ち彼は、神様がどう見ておられるかを気にすることなく、自分の気持ちを一番大切にしているからです。 彼は復讐の炎を主に委ねる事ができませんでした。 ――今日私たちは、自分の気持ちを第一にすることなく、主の眼差しの下で生きたいと思います。 ダビデが言うとおり「悪をなす者には主御自身がその悪に報いられるように」なのですから。

第4章1節~12節(イシュ・ボシェトの死)

2004年4月8日(木)

第1章とソックリの事が再び起こりました。サウルの死後、なかなか統一王国を樹立できないでいるダビデ。 そのダビデに取り入ろうとして、レカブとバアナの二人は主君イシュ・ボシェトの寝首をはね、それを王の下に差し出します。 ダビデがいかなる人物であるかを弁え知ることなく、破廉恥にも褒美を期待する二人です。ダビデはこれに死をもって報いました。 そして叫びます。「あらゆる苦難から私の命を救われた主は生きておられる」と。 このダビデの叫びは「あなたがたの企みに満ちた助けを受けなくとも、主が私を守っておられるのだ」という宣言に聞こえます。 ――今日一日、人間の思いと企みにのみ埋没しないように生きたいと思います。 そして主に、あらゆる苦難から助けていただきましょう。

第5章1節~16節(ダビデ、イスラエルとユダの王となる・ダビデの町エルサレム・エルサレムで生まれたダビデの子孫)

2004年4月9日(金)

遂に南北統一の時が来ました。そこでダビデはエルサレムを新都に定めます。その理由は以下の諸点が考えられます。 1.イシュ・ボシェトの残存勢力(サウル家を慕う者たち)の影響を受けることがない 2.この地は北王国にも南王国にも属していない中立の土地 3.しかもエルサレムは信仰の父アブラハム縁の地! しかしその様なダビデの政治的判断を遥かに超えて「主なる神様が王都をエルサレムに定められたのだ」と聖書は語ります(詩篇14)。 そして主なる神様は、ダビデの都エルサレムに愛する御子の十字架を打ち立てる御計画なのです。 ――主の十字架の立つ所、そこにのみ、全人類の和解の場所があります。

第5章17節~25節(ダビデ、ペリシテ人を破る)

2004年4月10日(土)

ダビデは主に託宣を求めました。すると主は「攻め上れ」と言われました。 しかし次に主に託宣を求めた時は「攻め上らず、背後に回れ」です。主の御心に聴きつつ生きましょう。

第6章1節~11節(神の箱をエルサレムへ運び上げる)

2004年4月11日(日)

全く不可解な死です。ウザはただ、倒れかけた神の箱を支えようとしただけなのです。 しかし主は、その彼を御怒りによって打たれました。一体ウザの何が悪かったというのでしょうか。 ――思えば、神の箱は敵ペリシテの手から自力で戻ってきたのでした。 主は誰の手も借りずに御自分の御力によって戻って来られました。 その時イスラエルは、神の箱の帰還に驚き、ただ神の御力のみを仰いだのでした。 ところが、この度ウザは<自分の手によって神を支える>という態度へと逆戻りしたのです。 それは「私が神様を支えてあげなければ」との思いであり、自分の力にしがみ付いている姿です。 彼は、神様を小さくし、自分を大きくしています。 ウザは何時しか「神の御力のみ!」という自由で晴れやかな信仰から逸脱していたのです。 ――主よ、あなたは大きく、この私は小さくあれ!

第6章12節~23節(神の箱をエルサレムへ運び上げる)

2004年4月12日(月)

ウザの死後三ヶ月の時が経ちました。ダビデは今、神の箱をエルサレムに運び入れます。しかしそのダビデの姿に注目しましょう。 20節「今日のイスラエル王は御立派でした。家臣のはしためたちの前で裸になられたのですから。」 要するにダビデは、見るに耐えない裸踊りをやってのけたのです。――ところで三ヶ月前のダビデはどうだったでしょうか。 6:1「ダビデは更にイスラエルの精鋭三万をことごとく集めた。ダビデは彼に従うすべての兵士と共にバアレ・ユダから出発した。」 何と威勢に満ちたダビデでしょうか。統一王国の王ここにあり!です。――三月経ち、なぜ王の姿はこれ程に変わったのか。 それは、主なる神様は大きくなり、ダビデは小さくなった、ということです。 以前のダビデは、自分の力に頼っており、主の下にある自由を失っていました。 しかし今彼は“主こそ我が神”との喜びを回復し「私はもっと卑しめられ、自分の目にも低い者となろう」と表白することができるのです。 ここに、キリスト者の喜びがあります。主は大きく、私は小さくあれ!

第7章1節~17節(ナタンの預言)

2004年4月13日(火)

ダビデは王宮に住み、昨今は周囲の敵も襲って来ることがありません。 正に天下泰平といった感があります。そこでダビデはふと思い付くのです。 「主のために家を建てよう。私は王宮に住んでいるが、神の箱は未だ天幕の中だ」と。 ダビデは受けた主の恵みに対してお返しをしようと考えたのです。――しかし主なる神様はこのダビデの発案を拒否なさいました。 「あなたが私のために住むべき家を建てようというのか。」そして主は更に「私があなたのために家を興す」とまで言われたのです。 ――神様と私たちとの関係は、ギブ・アンド・テイクの関係ではありません。或いは、持ちつ持たれつの関係でもありません。 そうではなくて、主なる神様は<恵みの上に、更に恵みを与えて下さるお方>なのです。 ダビデはその事を忘れ「神様のために~~してあげなければ」と思ってしまったのです。

第7章18節~29節(ダビデ王の祈り)

2004年4月14日(水)

本日の聖書個所は、下手な解説を加えるよりも、言葉の意味を味わいつつ何度も朗読すると良い個所だと思います。 特に、神に祈る勇気を失っている方には慰めの個所となるでしょう。ダビデは言っています。 「それ故、僕はこの祈りをささげる勇気を得ました」と。 それは、神様が「あなたとあなたの子孫を祝福する」と確約して下さったからです。

第8章1節~18節(ダビデの戦果・ダビデの重臣たち)

2004年4月15日(木)

ダビデの戦果です。短期間の内にイスラエルを一大国家に仕立て上げた王ダビデの業績。 それは、信仰者でなくとも古代の歴史家が認めるところです。しかし注意しましょう。 ダビデは「このような国を造りたい」と願い、その通り実行したから成功したのではないのです。 主なる神様が「ダビデにこういう国を造らせよう」と決意され、その通りダビデを用いて下さったのでイスラエル国家が立ったのです。 ――私たちは、自分が何をしたいのかを先ず考え、神様に手伝って下さるよう祈りがちです。しかしその祈りは間違っています。 主なる神様がこの私に何を為させようとしておられるのか、それを聴くのが祈りであり、主の御心に従って進む時に、 主が勝利を与えて下さるのです。 本章に「主がダビデに、その行く先々で勝利を与えられた」とあるのは、その主の恵みの事実を語っているのです。

第9章1節~13節(ダビデとメフォボシェト)

2004年4月16日(金)

ダビデは、前王サウルの死後も、サウル家の残存勢力に対して常に意識を張っていたと思われます。 ところが、ここにダビデはヨナタンの遺子メフィボシェトを手厚く迎え、王子同然に遇します。 それは、かつて盟友ヨナタンとの間に交わした契約に基づく行為です。 ダビデはヨナタンとの契約を忘れることなく、メフィボシェトを王の食卓に招くのです。 王の食卓に招かれたメフィボシェトは言っています。「死んだ犬も同然の私を顧みてくださるとは」と。そうです。 私たちは「罪に死んだも同然の私」でした。 しかし、父なる神様は主イエスとの契約をお忘れになることなく、私たちを王の食卓(=聖餐)へと招いて下さいました。 そうです。「罪に死んだも同然の私」が「王の王」の王子とされたのです。

第10章1節~19節(アンモン、アラムとの戦い)

2004年4月17日(土)

ナハシュに恩義のあるダビデは、王の死を悼み、使節を遣わします。しかしその善意が悪意に取られ、事は戦争にまで発展するのです。 連合軍に挟み込まれた将軍ヨアブは言います。「我らの民のため、我らの神の町々のため、雄雄しく戦おう。 主が良いと思われることを行って下さるように」と。――人に裏切られつつ、主を礼拝する。明日の私たちです。

第11章1節~26節(ウリヤの妻バト・シェバ)

2004年4月18日(日)

有名なダビデの罪の物語です。しかし注意しましょう。 この物語は「ダビデも女性には弱かったのだ」と言ったレベルの話ではないのです。 むしろ、あれだけサウルに苦しめられながらも、主に対する信仰を堅く守り通したダビデのことを思えば 「どうしてこの様なことを?」と思わずにおれません。 本章が示すダビデの罪の姿は、人間の中にある<底知れぬ不気味な深遠>を浮き彫りにしているのではないでしょうか。 人間が抱えている底知れぬ罪の深遠。そこから私たちを救い得るのは十字架の主ただお一人です。 「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか。」 主がそう叫ばれた時、主は人間の底知れぬ罪の深遠に飲み込まれておられます。そして主は、その様にして救い主となられたのです。

第12章1節~15節(ナタンの叱責)

2004年4月19日(月)

聖書の言葉は、私たちに突き刺さってくる<活ける神の御言葉>です。 「その男はあなただ。」ダビデに向かって語られたナタンのこの言葉が、私たちの胸にも突き刺さってきます。 他人の罪は冷静に見抜くことができても、自分の罪には気付かない。その私たちに向かって、ナタンの言葉が突き刺さってきます。 それは、ナタンを通して語っておられる聖霊の御声であり、私たちの罪のベールを剥ぐ主の御業なのです。 ――私たちの姿は主の御前にあって、白日の下に晒されています。ただ十字架の主にすがって、今日という一日を生きましょう。 主の御前に深く死ぬ者は、主によって真の喜びに甦らされるのですから。

第12章15節~23節(ナタンの叱責)

2004年4月20日(火)

本日の聖書が示す信仰の真理は、神様は私たちの罪を赦して下さる、しかしその罪の赦しには必ず苦しみが伴う、ということです。 ダビデの罪は主によって赦されましたが、そこには大きな犠牲、苦しみが伴いました。即ち、苦しみを経ないで、 ただ罪の赦しだけを受けるということはあり得ないのです。しかし注意しましょう。 だからと言って、私たちが味わう苦しみが罪の償いに値する、という話ではありません。 私たちの罪は、主イエス・キリストの十字架のみによって完全に償われています。 しかし私たちは、主によって自らの罪を強く示される時に、やはりそこで苦しみを経験するのです。 この罪を自覚させられる苦しみ無くして、十字架の恵みへの到来はあり得ないのです。 十字架の主の恵みを知るための苦しみ、それは、私たちの人生全体を通して経験される恵みへの苦しみなのです。

第12章24節~31節(ソロモンの誕生・ラバの占領)

2004年4月21日(水)

ダビデの罪を徹底的に追及された主が、今ダビデ夫妻を受け入れ、その子ソロモンを祝福しておられます。 しかも、ダビデの罪を追求するために遣わしたナタンを、主はここでもう一度遣わしておられるのです。・・一方ヨアブはどうか。 ダビデの弱みを握ったとも思われるヨアブですが、彼もまたダビデを主に立てられた王と認め、王に対して忠実な姿を取っています。 秩序の回復!正にここに、主の赦しが来ているのです。そして最後、出陣して行くダビデ。 しかしそれは、自分の勝利を獲得するためではなく、主の栄光を現すために出て行くのです。――以上は、神の民である教会の話です。 祝福された子供の誕生、教会における秩序の回復、主の栄光のための戦い!ここに、主の赦しと祝福が来ています。

第13章1節~39節(アムノンとタマル・アブサロムの復讐)

2004年4月22日(木)

先にダビデが犯した罪と同種の罪が描かれているように思われます。しかしダビデの場合と決定的な点で違っています。 それは「ここには預言者がいない」ということです。ダビデにはナタンがいましたが、ここには預言者の姿が見当たりません。 「あなたのした事は、神の御心に適わない事だった」と告げる預言者がいないのです。 結果、アブサロムの復讐が起こり、アムノンは暗殺されてしまいます。――本章が示す悲劇はどうやったら回避できたのでしょうか。 「アムノンがあんなバカなまねをしなかったら。」「アブサロムがアムノンをゆるしてやってさえいたら。」 「タマルが黙ってさえいてくれたら。」色々と「もし~だったら」と考えることはできます。 しかし決定的なことは、神の言葉を聴いていれば、こんな悲劇は生まれなかった、ということではないでしょうか。 神様の御前で悔い改めて行くことしか、この悲劇を逃れていく道は存在しないのです。 ――主の御前に、主の御言葉を聴いたか否か、それがダビデの場合と決定的に違う点なのです。

第14章1節~33節(ダビデ、アブサロムを赦す)

2004年4月23日(金)

先にダビデはナタンから「その死に値する罪人とは、あなたです」と指摘されました。 そして今彼は「アブサロム様を赦すのは、あなたです」と女から言われているのです。 ――私たちは、他人の罪の姿には気が付きやすいのです。 しかし、事が一度自分のこととなると、自らの罪の姿になかなか気が付きません。 また、私たちは「あの人はあの方を赦すべきだ」とは気付くのですが、人を赦すべき自分の姿にはなかなか気が付かないのです。 本日の御言葉は私たちに「赦すのは、あなただ」と語りかけています。人を赦す力のない私たち。 主の大いなる助けを受けて、主とあって和解をもたらす道を進みたいと思います。

第15章1節~6節(アブサロムの反逆)

2004年4月24日(土)

アブサロムは父ダビデに対して謀反を起こそうとしています。 そして彼は、人の常として人々の不満を掻き立て、現体制を倒す目論見です。 自分の思いを成し遂げるために、人心を利用し、謀反を謀るアブサロム。 聖書はここに、主の御心を聴かず、自分の思いだけで突っ走る人間の姿を描き出しています。 そして、正にここに、主の十字架が立つのです。

第15章7節~29節(アブサロムの反逆・ダビデとイタイ・ツァドク、アビアタルと神の箱)

2004年4月25日(日)

数々の苦難を潜り抜けてきたダビデですが、この度は人生最大の試練と呼んで良いでしょう。 息子が父である自分に対して謀反を企てたのですから。しかもアブサロムにつく人々の数は増加の一途を辿ります。 今や王ダビデは、都を後にするより他ないところに追い込まれたのです。 ――私たちは試練の中に置かれる時、何を思い、どうするでしょうか。 特に、親しい者との間に起こった苦しみの日に、信仰者は何により頼み、どう生きるでしょうか。25節のダビデの言葉を聴きましょう。 「・・私が主の御心に適うのであれば、主は私を連れ戻し、神の箱とその住む所とを見せてくださるだろう。 主が私を愛さないと言われる時は、どうかその良いと思われることを私に対してなさるように。」 私が主の御心に適うなら、主は万事を解決してくださるだろう。しかしそうでない時には、主が良いと思われることが為されますように。 主の御心を真に求める時、私たちは一切を主に委ねることができます。 すべてをご存知であられる主に一切を委ね、今日一日を生きましょう。

第15章30節~第16章14節(ダビデとフシャイ・ダビデとツィバ・ダビデとシムイ)

2004年4月26日(月)

私たちの人生には時として<事実無根の悪口>を受けることがあります。 何の根拠も無いところで逆恨みしている相手が、悪口雑言をもって迫って来るような時です。 そのような時、私たちは大変心外に思い、場合によっては仕返しせずにはおれなくなるのかも知れません。 ――本日の聖書でダビデは正に<事実無根の悪口>を浴びせ掛けられています。言葉だけでなく石まで飛んできます。 しかしこれをダビデがどう受け止めたかです。10節「ツェルヤの息子たちよ、ほうっておいてくれ。 主がダビデを呪えとお命じになったのであの男は呪っているのだろうから『どうしてそんなことをするのか』と誰が言えよう。」 ここに、人生に起ってくる出来事を、主の御心と深く結び付けているダビデがいます。 たとえそれが自分にとっては全く不本意な事であったとしても・・。私たちの主は、人生と歴史の只中に生きて働かれる神です。 その主の御業と御心を受けつつ今日を生きましょう。

第16章15節~第17章23節(アヒトフェルとフシャイ)

2004年4月27日(火)

本日の中心は14節bです。「アヒトフェルの優れた提案が捨てられ、アブサロムに災いがくだることを主が定められたからである。」 これは恐るべき現実を告げている御言葉です。 自分の思いだけで突き進み、父を倒そうと謀るアブサロムに対して、主は災いを下すことを定められたというのです。 しかもここで主は、人間の思い謀る計画に具体的に関与しておられます。 この主を知る時、主により頼む者には慰め多く、主に逆らう者には悩みが絶えません。 今日一日、人の思い謀るところにも関与される主に信頼し、生活しましょう。

第17章24節~第19章1節(会戦の準備・戦闘とアブサロムの死・二人の急使)

2004年4月28日(水)

いよいよ会戦となりました。しかしこの戦いには当初から問題が潜伏していました。 ダビデは王として敵軍に勝利したいのですが、父親としては息子アブサロムを守りたいのです。 主の御心に従おうとする心と父親としての心とが、ダビデの中で分裂しています。 ――さて結果は、ダビデ軍の勝利に終わりましたが、 王ダビデが「良い知らせ」「良い知らせ」と連呼していることに注目です(25,26,27節)。 即ち、この言葉は一体何を意味しているか、です。それは、息子の無事だけを祈り続ける父親ダビデの思いです。 このダビデの思いに私たちの心は締め付けられます。しかし私たちはここでこそ心に留めなければなりません。 ダビデの中にある、主に従う心と父親としての心の分裂が、命をかけて戦い抜いた兵士たちに虚脱感を与え、 神の民の中に動揺が生じているのです。主に従うことの厳しさ、肉に死に霊に甦ることの激しさを思わずにおれません。 しかし本日の聖書は私たちに語りかけています。聖霊があなたと共におられ、あなたの肉を殺し、永遠の生命へと導く、と。

第19章2節~9節(ヨアブ、ダビデを非難する)

2004年4月29日(木)

昨日読んだダビデの心の葛藤と、神の民の心とを受け止めていた人物がいました。神の僕たる指揮官ヨアブです。 彼は、ダビデの父親としての心の葛藤を受け止めている人物であり、また王は民を真実に導くべき存在であると信じつつ、 腹を据えて王ダビデに進言します。「あなたを憎む者(アブサロム)を愛し、あなたを愛する者(家臣)を憎まれるのですか。 ・・とにかく立って外に出、家臣の心に語りかけてください。 主に誓って言いますが、出て来られなければ、今夜あなたと共に過ごす者は一人もいないでしょう。」 そしてダビデは、このヨアブの厳しい進言の言葉を入れて、王として民の前にその姿を現したのです。 ――なぜヨアブは王に対してこれほど厳しい進言を為すことができたのでしょうか。 また、なぜダビデは自分の部下の厳しい言葉に聴き従うことができたのでしょうか。それは、この二人が神の御心に聴き従ったからです。 そして正にここに、真の神の民の姿があるのです。

第19章9節~40節(エルサレムへの帰還・ヨルダン川を渡る・王とバルジライ)

2004年4月30日(金)

ヨルダン川を渡り、都へと凱旋行進する王ダビデです。そこには、命乞いをするシムイやメフィボシェトが王を迎えに出て来ました。 そしてここに、神の祝福の光がその身に投じられている老バルジライの姿があります。 ダビデが最も苦しかった時に味方になってくれ、世話になった信仰の人バルジライです。ここに、神の子たちの麗しい出会いがあります。

第19章41節~44節(イスラエルとユダ)

2004年4月31日(土)

統一王国成立後もイスラエルとユダの間に確執が存在したことを聖書は語ります。 十字架の主キリストは、人間の確執の刃をすべて、御自身の体に受けられた方です。この方にのみ人間の真の一致があります。 そして私たちは明日、この方の御前にひれ伏すのです。

第20章1節~26節(シェバの反逆・ダビデの重臣たち)

2004年5月1日(日)

私たちの身の回りにも本章と良く似たことがあるのではないでしょうか。「ダビデ王は私たちの部族出身だ」というユダの地元意識。 それに対する北イスラエルのやっかみ。そしてそのやっかみに乗じて、人々の憤懣を煽り立て、自分の勢力を拡大していくシェバ。 これらの状況から判断して、ダビデを裏切り逃げていくアマサ。そして事態は遂にシェバを追跡する討伐隊の出撃となります。 ――人間の様々な思惑が渦巻き、流血の危機が迫っています。しかしその時、一人の女性が町全体を流血の災いから救いました。 19節「あなたはイスラエルの母なる町を滅ぼそうとしておられます。何故、あなたは主の嗣業を飲み尽くそうとなさるのですか。」 彼女はすべての者たちが忘れていた事を明言しています。 即ち彼女は「この町とその住民のすべては主なる神様のものである」と訴えているのです。 私たちは今日一日、自分の思惑に従って生きるでしょうか。 それとも「この町、この人々、この自分は、主なる神様のものである」という喜ばしい神の光の中に生きるでしょうか。

第21章1節~22節(飢饉とサウルの子孫・対ペリシテ戦における武勲)

2004年5月2日(月)

何と痛ましく、何と凄まじい光景でしょうか。屍臭をたて始めた息子たちの遺体。それは鳥や獣たちの格好の餌食となります。 その愛する息子たちの亡骸をリツパは命がけで守り通します。昼夜を徹して!――しかしなぜこの様な悲惨が起こったのでしょうか。 聖書は語ります。「・・イスラエルの人々は彼らと誓約を交わしていた。 ところがサウルは、イスラエルとユダの人々への熱情の余り、ギブオン人を討とうとしたことがあった。」 主の御前で結んだ誓約があったにも関わらず、サウルは神の民を思う熱情の余り、ギブオン人との誓約を破りました。 それが、この度の惨事のすべての原因だったのです。 ――私たちもまた、教会のことを思う余り、愛する者のことを思う余り、主の御心を無視して行動することがあるのではないでしょうか。 聖書は「あなたの熱き思いが一番だ」とは語りません。主の御心に聴き従ったかがすべてなのです。 ――本章が示すリツパの姿は、十字架の主の御前に立つ母マリアの姿を映し出すものではないでしょうか。 主は、私たちの誤った熱心のために十字架にお付きになられたのです。主よ、われらを憐れみたまえ。

第22章1節~51節(ダビデの感謝の歌)

2004年5月3日(火)

「主は私の岩、砦、逃れ場 私の神、大岩、避けどころ 私の盾、救いの角、砦の塔。 私を逃れさせ、私に勝利を与え、不法から救って下さる方。」私たちは天地の造り主のみにより頼みます。 この世の何ものにもより頼みません。自分自身にも。力、賜物、財産、信仰の熱心さ、その他いかなるものにも私たちはより頼みません。 主にのみより頼みます。

第23章1節~39節(ダビデの最後の言葉・ダビデの勇士たち)

2004年5月4日(水)

ダビデの遺言です。それは、神への賛美の歌であり、落日の寂しさではなく、昇る朝日の輝きを思わせる言葉です。 今彼は死を前にして「イスラエル(=教会)の麗しい歌」を心を上げて歌います。 そして、その彼が望み見ている輝きの源は<主なる神の真実>です。主は永遠の契約を必ず守って下さる。 そして遂には、すべての悪を最後的に刈り取って下さる。 ダビデは、この主をほめ称える信仰に、神の民とされた信仰の友たちと共に生きたのです。 主の再臨を待ち望み、御国の完成を仰ぎ見て、今日の一日(ひとひ)を生きましょう。

第24章1節~25節(ダビデの人口調査)

2004年5月5日(木)

難解とされる個所です。それは、1.民の数を数えることがなぜこれほどに主の怒りを呼び起こすのか。 2.主が民の数を数えるよう「ダビデを誘われた」とあるのは、どういうことか。 3.歴代誌上21:1に本章に似た記述があり、 そこには「サタンがイスラエルに対して立ちイスラエルの人口を数えるようにダビデを誘った」とあるが、 ダビデを罪へと誘ったのは主なのか、それともサタンなのか。以上が難解とされる理由です。 ――1について:民の数を数えることは、もはや主により頼むことを止め、自分たちの力に頼む不信仰と受け止めることができます。 2と3は聖書が告げている不可思議な真理です。 即ち、私たちが不信仰の罪に陥っていく場合、そこにはサタンの誘惑があると共に、そのサタンの背後に主がおられるのです。 そしてその主がサタンの活動を容認しておられ、私たちが罪に誘われるままにしておられることがあり得る、という真理です。 聖書は「神様はサタンと人間の為すがままにさせておかれることがある」と告げています。 ――主が十字架への道を歩まれた時、父なる神はサタンに最大限の活動を許可し、人間の為すがままにされました。 そこに、私たち人間の罪が極限まで現れ、私たちの救い、罪の赦しを打ち立てるために。