列王記上

第1章1節~53節(王位継承の争い)

2004年5月7日(金)

本章が告げていることは何でしょうか。 それは、主の御心を聴かず自分の思いだけで突き進む人間の姿であり、 ダビデはその最晩年に至っても心休まることが無かったということです。しかしそのダビデ自身の言葉を聴きましょう。 「私の命をあらゆる苦しむから救って下さった主は生きておられる。」今日一日、この言葉を胸に、アーメンと歩みましょう。

第2章1節~11節(ダビデ王の最期)

2004年5月8日(土)

ダビデの遺言は一見、世話になった老バルジライを祝福しつつ、恨みのあるシムイを呪っているように見えます。 しかしそうではないと信じます。 なぜなら、ダビデが今シムイのことを口にするのは「イスラエルの王座が堅く立てられるよう、 人間の罪の現実をしっかり受け止めよ」との<ソロモンとその子孫への遺言>だからです。 ――生涯の終わりに、教会のことを思い、主にすべてを委ねることができる人は何と幸いなことでしょう。

第2章12節~46節(王位をうかがう者のその後)

2004年5月9日(日)

主の御心を無視し「王になりたい」との野心を燃やし、画策するアドニヤ。そのアドニヤに加担してしまった名将ヨアブ。 かつてアブサロムには加担しなかった彼であるが・・・。そして、時々の実力者に追従する風見鶏のシムイ。 これらの人々は、王によって次々に討たれて行きます。 それは一見すると<謀反を起こそうとする勢力の打倒>と映りますが、その内実はそうではありません。 主なる神様の御心を無視し、主に逆らう者たちが、主によって討たれているのです。 ――神様は、私たち人間の罪を大目に見られる方ではありません。主は、主に逆らうあらゆる勢力を最後的に討ち滅ぼされる方です。 それゆえ私たち自身も、主によって永遠の刑罰を受けるより他ない者であるに違いありません。 しかし、主なる神様は、その様な私たちが義とされる道を打ち開いて下さいました。 神の永遠の刑罰のすべてを、その体と魂に引き受けられた十字架の主キリストがおられます。 私たちは、この主の御許で赦され、生きることができます。 ――この新しい一週、十字架に死を遂げられ、復活して生きておられる主と共に、永遠の生命の輝きの中を歩いて行きましょう。

第3章1節~28節(ソロモンの知恵)

2004年5月10日(月)

ソロモンはただ一つのことを主に求めました。「主よ、どうか、あなたの民の訴えを正しく聞き分ける知恵を与えて下さい」と。 そして主は、このソロモンの祈りをお喜びになり「知恵に満ちた賢明な心を与える」と約束して下さいました。 否そればかりでなく、願い求めなかった富や繁栄そして長寿までも! ――私たちの心の中には様々な願いがありますが、主が待っておられるのはただ一つの祈りなのではないでしょうか。 それは、主の御支配が地上になるための良き知恵です。 ――主よ、神の民をよく治めるために、長老会の上に知恵に満ちた賢明な心を与えて下さい。 主よ、家庭をよく治めるために、私たちの上に知恵に満ちた賢明な心を与えて下さい。 主よ、この国をよく治めるために、政を行う者たちの上に知恵に満ちた賢明な心を与えて下さい。 そして、あなたの御国が来ますように。

第4章1節~20節(ソロモンの統治とその繁栄)

2004年5月11日(火)

イスラエル王国の繁栄は、正に適材適所によるものでした。 知恵に満ちたソロモン王は、相応しい人を相応しい部署に就かせることのできる王なのです。 ――ならば主イエス・キリストこそは、教会と世界を最もよく治めることのできる真の知恵者、真の王です。 主の下にあっては、目は手に向かって「お前は要らない」とは言えず、頭が足に向かって「お前たちは要らない」とは言えません。 一人一人が掛け替えのない存在であり、主の体の一部です。主はあなたに、どのような役割、どのような持ち場を与えておられますか。

第5章1節~32節(ソロモンの統治とその繁栄・神殿建築の準備)

2004年5月12日(水)

いよいよ、神殿建立計画に着手です。 しかし今ここで事が始まったのは、主がかつてダビデに約束された事の実現であることを見逃すことはできません。 サムエル記下7:12「あなたが生涯を終え、先祖と共に眠るとき、あなたの身から出る子孫に跡を継がせ、 その王国を揺るぎないものとする。この者が私の名のために家を建て、私は彼の王国をとこしえに堅く据える。」 ――私たちの身の上に何か事が成って来る時には「主が約束を実現しておられる!」と知りたいと思います。 そして、事が成って来る前には「今主は私たちにどのような約束を下さっているのだろうか」と思い巡らし、 それを受け止めたいと思います。主と共に生きる人生は、ダイナミックな主の御業の中に身を置いて生きることです。 今、あなたの身の上に起って来ている事は偶然ではありません。主のご計画を尋ねましょう。

第6章1節~38節(神殿の建築)

2004年5月13日(木)

神様はあなたをお選びになり、主の教会を形作る<一つの生ける石>としてくださいました。 では、主なる神様は今、<生ける石>とされたあなたの日々の生活に何を望んでおられるでしょうか。 主の<生きた石>として日々生きて行くとはどういうことなのでしょうか・・。本日の聖書には一つのヒントが示されています。 それは、互いの石が個々バラバラであっては神殿を建てることはできない、神殿が建て上げられるためには、 個々の石がそれに相応しい場所に収められる必要がある、ということです。 主なる神様は、あなたという<一つの生ける石>を今どこに収めておられるでしょうか、 また、これからどこに収めようとしておられるでしょうか。あなたは今、どの役割に立てられていますか。 また、誰と共に生きるよう求められていますか。主の御心を尋ねつつ、再確認してみましょう。

第7章1節~51節(宮殿の建築・神殿の備品の製作)

2004年5月14日(金)

ここには、神様の御姿や御心は直接記されてはいません。宮殿建築に際して、その素材・寸法・形状などが列記されているに過ぎません。 しかし注目しましょう。46節には「王はヨルダンの低地、スコトとツァレタンの間の粘土の豊かな所でこれらを鋳造した」とあります。 そうです。神礼拝のために用いられる祭具はすべて、鋳型に入れられ鋳造されたものばかりなのです。 発掘された鉱物は、打ち砕かれ溶かされ、鋳型に注ぎ込まれて様々な祭具へと造り上げられて行くのです。 ――天の匠は、その様にして私たち一人一人を神礼拝のために聖別しておられるのです。 私たちもまた、打ち砕かれ溶かされて、キリストの形となるべく聖霊による訓練を受けます。主の恵みを映し出す、一祭具として。

第8章1節~21節(契約の箱の安置とソロモンの祈り)

2004年5月15日(土)

主が約束されたことを実現され、神殿は建立されました。主を礼拝する場所、それは主の約束によって立つのです。 明日、私たちは、主の約束によって教会に集います。

第8章22節~66節(契約の箱の安置とソロモンの祈り)

2004年5月16日(日)

神殿奉献の際にささげられたソロモンの祈りです。そしてこれは私たち自身の祈りでもあります。 33-34節は私たちにとっては次の祈りとなるのではないでしょうか。 「私たちが、あなたに罪を犯したために地上の敵に打ち負かされた時、あなたに立ち帰って御名をたたえ、教会で祈り、 憐れみを乞うなら、あなたは天にいまして耳を傾け、私たちの罪を赦し、主イエスの下に立ち帰らせてください。」 また37-38節はこうなるでしょう。 「この地に不況が広がったり、病がはやったり、・・そのほかどんな災い、どんな難病が生じたときにも、私たちが、誰でも、 心に痛みを覚え、教会であなたに向かって祈るなら、そのどの祈り、どの願いにも、あなたはお住まいである天にいまして耳を傾け、 罪を赦し、こたえてください。あなたは人の心をご存じですから、どの人にもその人の歩んできたすべての道に従って報いてください。 まことにあなただけがすべての人の心をご存じです。」 ――主なる神様は、あなたの心を知っておられ、あなたの祈りを待っておられます。

第9章1節~28節(主の顕現・ソロモンの諸事業)

2004年5月17日(月)

25節「・・こうして彼は神殿を完成した。」「こうして」とは「どうして」でしょうか。 それは「奉献された神殿を主が受け入れてくださって」だと思います。中心聖句はこう語ります。 「主はかつてギブオンで現れたように、再びソロモンに現れ、こう仰せになった。 『私はあなたが私に憐れみを乞い、祈り求めるのを聞いた。 私はあなたが建てたこの神殿を聖別し、そこに私の名をとこしえに置く。』」 ――どれほど丹念に神殿を建設したとしても、主が聖別してくださらなければ、それはただの建造物に過ぎません。 建造に要した年月も、総工費○○億円も、主が「ここに私の名を置く」と言ってくださらなければ、全く意味がありません。 小松教会の教会堂建築も、ただこの一点にかかっています。

第10章1節~29節(シェバの女王の来訪・ソロモンの富)

2004年5月18日(火)

圧倒的なソロモンの知恵と栄華です。 それは、シェバの女王を唸らせたのみならず「全世界の人々が、神がソロモンの心にお授けになった知恵を聞くために、 彼に拝謁を求めた」とまで言われています。神様が私たちに与えてくださる賜物は、小さく安っぽいものではありません。 新約にはこう言われています。 「神はこの恵みを私たちの上にあふれさせ、すべての知恵と理解とを与えて、秘められた計画を私たちに知らせてくださいました。」 私たちキリスト者は、天地万物の相続すら約束されている御国の世継とされた者たちです。 主イエス・キリストは万人を生かす、無尽蔵に溢れる神の知恵そのものであられます。 今日一日、主の知恵の大きさを信じ、主にすべを委ねて、主を証ししつつ生きましょう。

第11章1節~40節(ソロモンの背信とその結果)

2004年5月19日(水)

世界随一の知恵の持ち主ソロモンの心に「迷いが生じた」と聖書は語ります。なぜか。「多くの外国の女を愛した」とあります。 それは、主なる神への節操を失い、神からの知恵ではなく自分の知恵によって生きるようになった、ということです。 4節「こうして彼の心は父ダビデの心とは異なり、自分の神、主と一つではなかった。」 ――そして次の御言葉は心して聴くべき主の御言葉です。 14節「こうして主は、ソロモンに敵対する者としてエドム人ハダドを起こされた。」 23節「また神は、ソロモンに敵対する者としてエルヤダの子レゾンを起こされた。」眼前に立ち現れた地上の敵は偶然ではありません。 主への節操を失ったソロモンに襲い掛かる、主が立てたもう敵なのです。――主よ、私たちを憐れんでください。 生涯、あなたと一つとなって生きることを得させてください。アーメン。

第11章41節~43節(ソロモンの背信とその結果)

2004年5月20日(木)

ダビデとバト・シェバとの間に生まれたソロモン。彼はエディドヤ(主に愛された者)とも命名されました(サム下12:25)。 ――成長し、主に多くを求めず、ただ一つのことを祈り求めた王。主は彼の祈りに応えて、世界随一の知恵を賜りました。 ソロモンの知恵は全地に轟き渡り、イスラエルの栄華は極限に達します。 しかし、王は主に対する節操を貫き通すことができず、地上の敵が立ち現れ、イスラエルは荒廃します。 そして、国内は分裂し、ソロモンはその生涯を閉じることになりました。――ソロモンの生涯を静かに黙想し、主の御心を尋ねましょう。 主よ、我らを憐れみ、あなたと一つに生きさせてください。

第12章1節~24節(王国の分裂)

2004年5月21日(金)

統一王国イスラエルは、なぜ南北に分裂するに至ったのか。その歴史的経過と分裂の理由を聖書は丁寧に振り返っています。 レハブアム王が長老たちの進言ではなく若者たちの勧めに従ったから。王の心は頑なで、人々の言うことに全く耳を貸さなかったから。 王に反旗を翻したイスラエルの人々がヤロブアムを共同体に招き、これを全イスラエルの王として立てたから。理由は様々です。 しかし聖書は真実の理由を告げています。「それら一つ一つの出来事は、主の計らいによる」と。 15節「王は民の願いを聞き入れなかった。こうなったのは主の計らいによる。」 23節「主はこう言われる。上って行くな。・・こうなるように計らったのはわたしだ。」 それは「神様が罪の作者となられた」という意味ではありません。人間の為すがままに任せられた、ということです。 主よ、我らを憐れみたまえ。

第12章25節~33節(王国の分裂)

2004年5月22日(土)

聖書は語ります。「彼はよく考えたうえで、金の子牛を二体造り」と。これは、熟慮の上誤った礼拝へと走った、という意味です。 私たちは御言葉と聖霊に与る時はじめて、真の礼拝へと導かれます。主よ、私が考える礼拝ではなく、あなたの礼拝に与らせて下さい。

第13章1節~34節(ベテルへの呪い)

2004年5月23日(日)

全く残念なことです。 先にヤロブアムの不信仰を糾弾し王を震撼させた、この神の人が、今度は老預言者に欺かれて、獅子の餌食になってしまったとは! 彼は<自分が聴いた神の御言葉>と<老預言者が告げる神の御言葉>が対立した時、肉を喜ばせる安易な道を選んでしまったのです。 ――私たちも、自分と同じ信仰者の口から出る、色よい、いかにも世慣れした甘言に引き込まれる場合があるかもしれません。 悪魔は何時も黒いとは限らないのです。見栄えの良い、人を喜ばす甘言にこそ、悪魔が働いていることが十分あり得るのです。 ――今週一週間、聖書の御言葉と共に生活しましょう。 人の口から発せられる甘い言葉に酔い痴れることなく、また、人の口から出る心無い言葉を受けるとしても、私たちは、 神の御言葉と一つになって生きることができるのですから

第14章1節~31節(ヤロブアムの子の病死・ユダの王レハブアム)

2004年5月24日(月)

レハブアムとヤロブアムの対立は即、ユダとイスラエルとの対立です。即ち、ソロモン王の死後、統一王国は南北に分裂したのです。 それは、日本の歴史にも見られるように、南北朝時代の始まりです。 しかし聖書は、南北分裂の真の原因をどこに見出しているでしょうか。それは偶像崇拝です。 「偶像崇拝こそは人間同士の対立と分裂の根本原因である」と聖書は語ります。 ――私たち人間同士の真の和解は、神様の御前に共々に跪くところにあります。 人間同士の真の平和は、十字架と復活の主キリストの御前に共に跪くところにのみあります。 私たちは、互いの和解と平和を祈りつつ、悔い改めて主の御前に進み出ましょう。 御言葉と御霊によってのみ、真の和解と平和が訪れるのですから。

第15章1節~34節(ユダの王アビヤム・ユダの王アサ・イスラエルの王ナダブ・イスラエルの王バシャ)

2004年5月25日(火)

聖書は、歴代の王一人一人に対してキチンと評価を与えています。 ユダの王アビヤム「彼もまた父がさきに犯したすべての罪を犯し、その心も父祖ダビデの心のようには、 自分の神、主と一つではなかった。」ユダの王アサ「アサは、父祖ダビデと同じように主の目にかなう正しいことを行い・・」 イスラエルの王ナダブ「彼は主の目に悪とされることを行って・・」イスラエルの王バシャ「彼は主の目に悪とされることを行って・・」 これらのことは、私たち人間の一生にとって<神様の眼差しの前にどう生きたか>が究極的問題であることを示しています。 ――今日一日、私たちは、様々な人々との接触の中で生きるのかも知れません。 しかし、本当の問題は「神様の眼差しの前でどう生きるか」です。それは「神様の前でお利口さんになろう」ということではありません。 既に神の子とされた者として、父に喜んでもらえる一日を生きる、ということです。

第16章1節~34節(イスラエルの王バシャ・イスラエルの王エラ・イスラエルの王ジムリ・イスラエルの王オムリ・イスラエルの王アハブ)

2004年5月26日(水)

イスラエルの王オムリについて聖書は次のように評価しています。 「オムリは主の目に悪とされることを行い、彼以前のだれよりも悪い事を行った。 ・・・空しい偶像によってイスラエルの神、主の怒りを招いた。」しかしその直後にこう続きます。 「オムリの行った他の事績、彼のあげた功績は、『イスラエルの王の歴代誌』に記されている。」 聖書は、主の怒りを招いたオムリに言及しつつも、その一方で、オムリにも功績があったと書き記します。どういうことでしょうか。 ――後世への遺産、土地建物を残すこと、その他様々な功績のある人生であった、ということが一人の人の人生にあり得ます。 しかし、やはりそこでもなお決定的・究極的なことは、神様の目にその人の全生涯がどう映ったか、ということなのです。 今日一日、神様の眼差しの下、主と共に生活しましょう。

第17章1節~24節(預言者エリヤ、干ばつを預言する)

2004年5月27日(木)

神様の御言葉に従って生きようとする時、そこには必ず困難が伴い、時には命の危険に晒されることすらあり得る。 預言者エリヤの姿はそのことを明示しています。しかし良く注目しましょう。 逃れて行くべき場所を、神様ご自身が知らせて下さっています。 また、神様は、数羽の烏や一人のやもめを用いてでも、エリヤの命を守り通されるのです。 ――私たちには様々な困窮があります。神の言葉に従わず、他者に対して力を振るう人間の支配欲があります。 命の危険、パンの欠乏、頼れそうな人が見当たらない状況、突然襲ってきた病。 しかしその様な状況にあって、本章が力強く示しているのは<主なる神様の絶大な守り>です。 その神の御力が、今日を生きるあなたの堅固な<救いの岩>です。

第18章1節~46節(エリヤとバアルの預言者・干ばつの終わり)

2004年5月28日(金)

天と地の好対照!アハブは飲み食いするために、エリヤは礼拝するために、それぞれ山へ上って行きます。 主がバアルの預言者全てを既に打たれたのに、待望の雨は今や目前に迫っているのに、アハブは地上のことを思い、 エリヤは主を礼拝します。――私たちは、イエス様の再臨に備えているでしょうか。 目を覚まし、地上のことをかなぐり捨てて、主に対する霊の眼を開いているでしょうか。 「主は近し」「主は近し」と御霊は告げています。

第19章1節~21節(ホレブに向かったエリヤ・エリヤ、エリシャを召し出す)

2004年5月29日(土)

「エリヤよ、ここで何をしているのか。」静かにささやく声が聞こえます。イゼベルを恐れ、荒れ野に逃れ、神の山に辿り着いたエリヤ。 今彼は洞穴に入り、全くの孤独の中で夜を過ごします。その彼に神が語りかけます。「エリヤよ、ここで何をしているのか。」 そして主は「そこを出て、山の中で主の前に立ちなさい」と言われました。――「そこを出て、山の中で主の前に立ちなさい。」 明日、礼拝の中で主の御前に立つ時、主が奇跡をもってあなたの命を支えておられることを知らされるのです。 七千人の残りの者たちと共に。

第20章1節~43節(イスラエルとアラムの戦い)

2004年5月30日(日)

敵の大軍が押し迫る中、主なる神様は一人の預言者を通して勝利を約束されました。 主はアハブを指揮官に立て、イスラエル兵七千を用いて勝利を与えると言われたのです。 そしてその勝利の目的は、イスラエルが「わたしこそ主であることを知る」ためだと主は言われました。 結果、イスラエルは二度の大勝利を経験することになったのです。しかし注意しましょう。主は最後こう言っておられるのです。 「私が滅ぼし去るように定めた人物をあなたは手もとから逃がしたのだから、あなたの命が彼の命に代わり、 あなたの民が彼の民に代わる。」アハブが自分の判断でベン・ハダドを逃がしてやったことに対する主の審きの御言葉です。 ――さて、これらすべてに先立って、主はアハブをイスラエルの指揮官としてお立てになったのです。アハブは主に尋ねます。 「誰が戦いを始めるのか」と。それに主は答えられます。「あなたです」と。 ――主なる神様は、他の誰でもない“あなた”を“ある役割”に召されることがあります。 主がイスラエルに大勝利をもたらす際には、必ず人を呼び出し、人を用いられるのです。 あなたには、どのような役割が主から与えられていますか。また、これから与えられようとしていますか。

第21章1節~29節(ナボトのぶどう畑)

2004年5月31日(月)

この物語を読み解く鍵は3節のナボトの言葉です。 「ナボトはアハブに、『先祖から伝わる嗣業の土地を譲ることなど、主にかけて私にはできません』と言った。」 ナボトはなぜこれほど強く王の願い出を断るのでしょうか。一つは明らかに、ナボト所有のぶどう畑が先祖伝来の土地だからです。 しかし、更に大事なことは、その土地は「嗣業の土地」、即ち主なる神様から授かった土地だからです。 ――主から賜った財産を保持し、後代へと受け渡していく。そこに、ナボトという人の命がけの信仰があったのです。 主は、そのナボトを嘉せられ、義をもってナボトの死に報いられたことが示されています。

第22章1節~54節(預言者ミカヤとアハブ王の死・ユダの王ヨシャファト・イスラエルの王アハズヤ)

2004年6月1日(火)

今、北王国イスラエルの王アハブは、南王国ユダの王ヨシャファトと手を結び、 先に奪い取られたラモト・ギレアドを取り戻す戦いに出て行こうとしています。しかしその時ヨシャファトは言いました。 「まず主の言葉を求めてください」と。「出陣する前に、先ず神様の御心を聴かねばならない」というわけです。 すると北の預言者約四百人は確約しました。「攻め上って下さい。主は、王の手にこれをお渡しになります。」 しかしもう一人、普段から王に疎まれていた預言者がいました。イムラの子ミカヤです。 アハブはしぶしぶ彼を呼び出すことになりますが、案の定、ミカヤはイスラエルの敗北を預言するのです。 あなたは今日どのような戦いに出て行こうとしていますか。或いは、人生の新たな戦いへと出て行こうとしているでしょうか。 その際大切なことはただ一つです。神様の御心を聴き、それに従うこと。 主の御心と一つになって生きる所に、神の国に勝利があります。