ネヘミヤ記

第1章1節~11節(ネヘミヤの祈り)

2004年10月10日(日)

ネヘミヤがささげた執り成しの祈りです。彼は神の民の悲惨を深く嘆きつつ、主に民の罪を告白します。そして彼が最も強く訴えるのは、かつて主御自身がなさった約束を主に思い出していただくことです。「どうか、あなたの僕モーセにこう戒められたことを思い起こして下さい。『もしも背くならば、お前たちを諸国の民の中に散らす。もしも私に立ち帰り、私の戒めを守り、それを行うならば、天の果てまで追いやられている者があろうとも、私は彼らを集め、私の名を住まわせるために選んだ場所に連れて来る。』――教会から離れている兄弟姉妹たちを覚え、ネヘミヤと同じく執り成しの祈りをささげましょう。

第2章1節~20節(ネヘミヤのエルサレム旅行)

2004年10月11日(月)

城壁再建事業は困難を極めました。けれどもネヘミヤは、事柄が一つまた一つと進む度毎にこう記します。8節「・・神の御手が私を守って下さったので、王は私の願いをかなえてくれた。」18節「神の御手が恵み深く私を守り、王が私に言ってくれた言葉を彼らに告げると、彼らは『早速、建築にとりかかろう』と応じ、この良い企てに奮い立った。」――今日一日、私たちがいかなる困難に直面しても、その困難さに目を奪われることなく、主の恵みの御手を仰ぐことができますように。――なお注目!1.ネヘミヤは示された主の御心をすぐには人に話しませんでした。その慎ましさに学びましょう。2.良い企てに奮い立った人々もいましたが、これを嘲笑した者たちも確かにいたのです(19節)。主よ、繰り返し祈ります。事の困難さではなく、あなたの恵みの御手を仰がせて下さい。

第3章1節~38節(エルサレムの城壁の修復・敵の妨害)

2004年10月12日(火)

城壁は高さ半分のところまで修復されました。ここに「民には働く意欲があった」とありますが、忘れてならないのは、一人一人に持ち場が与えられ、各自が与えられた役割に忠実に働いていることです。キリストの教会が地上に形を成すのもこれに同じです。――また、サンバラトらの誹謗・嘲笑に対してネヘミヤがささげた祈りが注目されます。「私たちの神よ、お聞き下さい。このように辱めを受けているのです。彼らの投げつける侮辱が彼ら自身の頭上に降りかかり、捕らわれの身となって異国で辱めを受けるようにして下さい。その悪を赦さず、その罪を御前から消し去らないで下さい。彼らは再建に励む者を嘲っています。」信仰者の祈りは、いつも他者の祝福を求める祈りであるとは限りません。主の御意思によって始められ、主の守りによって進められてきた事業、その主の御事業を侮る者らには、ネヘミヤによって呪いの祈りがささげられたのです。――今日一日、天の父なる神の御意思が、この地上に、私たちの只中に行われますように。

第4章1節~17節(敵の妨害)

2004年10月13日(水)

主の使命に生きる時、そこには必ず困難が伴います。最初は意欲に満ちていた神の民も、様々な問題に直面して「城壁の再建など私たちにはできません」と言い出します。また、反対者たちがいよいよ妨害工作に乗り出しました。民は今や持ち場を離れ始め、役割を捨て去ろうとしています。そのような時にネヘミヤが語り掛けました。「敵を恐れるな。偉大にして畏るべき主の御名を唱えて、兄弟のため、息子のため、娘のため、妻のため、家のために戦え。」今、彼らに必要なことは、様々な問題・課題に心を奪われるのではなく、主のみを畏れ仰ぐことなのです。――私たちも、主と共に生きようとする時、様々な抵抗や問題にぶつかって、戦列を離れたくなることがあると思います。しかしその時にこそ、思い出す必要があります。私たち自身が戦うのでなく、主御自身が戦って下さるのです。「角笛の音を聞いたら、私たちのもとに集まれ。私たちの神は私たちのために戦って下さる。」今日一日、主のみを畏れ仰ぎ、主の盾に守られつつ生きましょう。

第5章1節~19節(民の不正の解消)

2004年10月14日(木)

神殿は既に完成していました。堅固な城壁も再建工事が進められています。しかしその傍らで、民の心と生活が崩れていました。同胞の間で、貴族と役人が富み栄える一方、民の多くは日毎のパンに事欠いていたのです。ネヘミヤは民の嘆きと訴えを聞き、大いに憤りを覚え貴族と役人を非難します。「あなたたちの行いはよくない。敵である異邦人に辱められないために、神を畏れて生きるはずではないのか。」更にネヘミヤは自ら進んで12年間無給で働き、兄弟たちも彼に従いました。――今日一日、自分の賜物を他者の益と救いのために用いましょう。与えられた賜物を主の御心に従って用いる時、そこに真の豊かさが与えられます。「神よ、私がこの民に尽くしたすべてのことを快く心に留めて下さい。」

第6章1節~9節(敵の脅迫)

2004年10月15日(金)

主の使命に生きる者に対して、事実無根のうわさ話を作り上げる者たちがいます。城壁を再建しているのは謀反を起こすためだ、というのです。ネヘミヤは語ります。「彼らは皆私たちの手が弱り、工事は完成しないだろうと言って、私たちに恐怖を与えている」と。そうです、彼らの妨害工作は止め難く、ネヘミヤらに恐怖を与えてくるのです。そして、窮地に立たされたネヘミヤは、ただひたすらこう祈るより他ないのです。「神よ、今こそ私の手を強くして下さい。」今日一日、この祈りを携えて、主と共に歩みましょう。

第6章10節~19節(敵の脅迫)

2004年10月16日(土)

私に恐怖心を与え、主の事業を挫折させようとする者たち。ネヘミヤは主の守りによって彼らの魔の手から逃れることができ、城壁はついに完成しました。――サタンの攻撃に一度屈したかに見えた方が、我らの十字架と復活の主キリストです。この主が共にいます。

第7章1節~72節(城壁の完成と警備・帰還した捕囚の民)

2004年10月17日(日)

最初の帰還民の名簿が発見されました。それによると詠唱者の数はわずか148人です。かつてソロモン王の時代には4000人を数えたのですが・・。門衛も事情は同じです。かつては4000人を擁しましたが今や138人と記されています。そして、レビ人もまた38,800人から今は恐ろしいほど激減しています。バビロン捕囚の爪痕がこの名簿に色濃く見て取れます。しかし聖書はここに、単に人数の減少を見るのではなく主の御言葉の実現を見ています。主はイザヤを通してこう告げておられたのです。「そしてシオンの残りの者、エルサレムの残された者は、聖なる者と呼ばれる。彼らはすべて、エルサレムで命を得る者として書き記されている。主は必ず、裁きの霊と焼き尽くす霊をもってシオンの娘たちの汚れを洗い、エルサレムの血をその中からすすぎ清めてくださる。」主の裁きによって洗い清められた残りの者たちがここにいる!と名簿は告げているのです。――神の宮(教会)で主を賛美し、教会に仕えることができるのは、主の大いなる憐れみによることです。試練を通して私たちを洗い清めてくださる主を仰ぎ、主のみを畏れ敬い、この一週を歩みましょう。

第7章72節~第8章8節(モーセの律法の朗読)

2004年10月18日(月)

律法朗読を中心にした彼らの礼拝の姿が印象的です。「彼が書を開くと民は皆、立ち上がった。エズラが大いなる神、主をたたえると民は皆、ひざまずき、顔を地に伏せて、主を礼拝した。次いで、・・というレビ人がその律法を民に説明したが、その間民は立っていた。」熱心なイスラム教徒の額には<祈りダコ>が見られます。ギリシャ正教会の礼拝は終始立ち続けて行われると言われます。そして旧約の民イスラエルも、主に対する心を態度に表して礼拝をささげたのです。――私たちは、主の御前にどのような態度を取っているでしょうか。私たちの礼拝は緩んだ心と態度を示してはいないでしょうか。足を組みながら「神様を礼拝している」と主張しても、説得力に欠けるのではないでしょうか。主の御前にある自らの姿を顧みたいと思います。そして、そのところから、生活の姿勢を整えて行きましょう。再臨の主キリストの御前に、いつでも立てる準備を整えながら。

第8章9節~18節(モーセの律法の朗読・仮庵祭)

2004年10月19日(火)

「今日は、我らの主にささげられた聖なる日だ。悲しんではならない。主を喜び祝うことこそ、あなたがたの力の源である。」「主を喜び祝うことこそ、あなたがたの力の源である。」何度も何度も繰り返し心で味わい、体得したい御言葉です。そして、この御言葉の意味は、苦しみ悲しみの中にあっても「主を喜び祝う」だと思います。自らの現状に逆らうようにして「主を喜び祝う」なのです。主よ、今日一日を生きる力を与えてください。

第9章1節~37節(罪の告白)

2004年10月20日(水)

全イスラエルによってささげられた<懺悔と救いを希求する祈り>です。その中心を貫くのは“恵みの契約”ですが、全体は三部からなっています。1.天地の造り主なる神が自分たちに与えて下さった恵みの契約を思い起こす(今日で言えば、教会創立日や受洗日を想起すること)。2.主の恵みの契約に対して自分たちがいかに不忠実であったか。背信の大罪。3.現在の大いなる苦しみからの解放を希求する。――悔いし砕けたる魂を主は侮られません。悔いし砕けたる魂こそ新しい命の始まりです。聖書がここに記す<懺悔と救いを希求する祈り>に支えられ、導かれて、私たちもまた主に真の祈りをささげましょう。

第10章1節~40節(誓約)

2004年10月21日(木)

前章の懺悔の祈りに引き続き、主の御前における<再献身の調印式>が執り行われます。全イスラエルは今、身も魂も主にささげる決断を持って捺印しますが、この式の中心にあるのは<彼らの新たなる決断>ではありません。そうではなくて<主の大いなる憐れみ>こそこの式のすべてです。頑迷にして不忠実なイスラエルの民が、もう一度主によって用いていただけるとするなら、それは主の大いなる憐れみ以外の何ものでもありません。神の民イスラエルは、主の大いなる憐れみの下で次のことを主に誓約します。1.自分たちのものとして奪い取っていた安息日を主のものとしてお返しする。2.自分たちの思いのままにしてきた結婚とその生活を主の御言葉に従うものとする。3.仕事とその成果のすべては主から来た賜物と受け止め、先ず主に感謝をささげる。――主の大いなる憐れみによって今私たちも自らを悔い改め、主の御心に適う新しい歩みに出て行きたいと思います。

第11章1節~36節(エルサレムおよび他の町と村に住んだ人々)

2004年10月22日(金)

「無味乾燥なカタカナ名の羅列」と早合点しないようにしましょう。本章の記者は、心中深く感動を覚えながら一人一人の名を刻んだに違いないのです。ここに名を記された神の民は、バビロン捕囚からの帰還民であり、およそ100年ぶりに自分たちの居住地を得た人たちなのです。「住んだ」「住んだ」と何度でも繰り返される所に、彼らの深い感謝が溢れ出ています。――また居住地が与えられたことは、単に住む場所を得たことに留まりません。主の約束の地にもう一度住むことがゆるされたのであり、主と共に生きる生活が全く新しく与えられた、ということなのです。そこには主の大いなる憐れみがあることを忘れてはなりません。――主よ、今日、私たちの住処をあなたと共に生活する場として下さい。

第12章1節~26節(帰還した祭司とレビ人の名簿)

2004年10月23日(土)

祭司の役目は<神と人との間に立って執り成しを行うこと>です。帰還した神の民の中に神の恵みとして祭司が立てられました。――主は、今、私たちの只中に唯一の大祭司イエスを立てて下さいます。この方の故に私たちは主を礼拝することがゆるされています。

第12章27節~47節(城壁の奉献)

2004年10月24日(日)

城壁奉献式の模様がネヘミヤ自身による回顧録として記されています。様々な困難と苦闘がありました。働き手の数が足りず、事業途中で民の意欲が失われた時もありました。サンバラトによる執拗な妨害工作が続きました。しかし、この事業を終始一貫支え導かれたのは主です。そして今ここに城壁は完成し、主に奉献することがゆるされたのです。43節「この日、人々は大いなるいけにえを屠り、喜び祝った。神は大いなる喜びをお与えになり、女も子供も共に喜び祝った。エルサレムの喜びの声は遠くまで響いた。」しかしここでも注意しましょう。今彼らを満たしている喜びは「様々な苦労はあったが城壁は遂に完成した」といった単純な喜びではありません。そうではなくて、主の裁きであるバビロン捕囚から帰還することがゆるされ、神の礼拝所たる神殿とその城壁とが完成したのです。それは「主なる神をもう一度礼拝することがゆるされた」という喜びなのです。――私たちが今日主を礼拝することがゆるされていること、それが正に主の大いなる赦しなのです。

第13章1節~31節(ネヘミヤの改革)

2004年10月25日(月)

ネヘミヤ記の最終章はネヘミヤによる宗教改革です。その改革のポイントは以下の諸点です。1.聖書(律法)に聴き従う2.礼拝奉仕者(祭司・レビ人)の粛清3.安息日を神のものとする4.結婚とその生活を神の御心に従うものとする。ネヘミヤはこれらの諸点について厳重に改革を進めましたが、その内的動機が17-18節に示されています。「なんという悪事を働いているのか。安息日を汚しているではないか。あなたたちの先祖がそのようにしたからこそ、神は私たちとこの都の上に、あれほどの不幸をもたらされたのではなかったか。」バビロン捕囚の悲惨を忘れてはならない。私たちが主の御言葉に対して頑なであり続けたからこそ、主は私たちにあれほどの不幸をもたらされたのだ。それなのにあなたがたは今もう一度同じ罪を繰り返し、イスラエルに対する神の怒りを招こうとしている。それがネヘミヤの警告であり、宗教改革の必然性なのです。――ネヘミヤ記は最後、私たちの信仰生活・教会生活のあり方が、主のものではなく私たち自身のものとなってはいないか、警告を発しているのです。主の御栄光が現れるために、私たちが用いられますように。