ヨブ記

第1章1節(事の起こり)

2004年11月4日(木)

この1章1節は、ヨブ記全体における大前提です。「ウツの地にヨブという人がいた。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きていた。」これからヨブの身にふりかかって来る苦難は、ヨブの罪に対する神の罰ではありません。因果応報でもなければ、運命でもありません。“義人に与えられる苦難”がヨブ記のテーマです。――罪なき全きお方が、計り知れない苦しみを味わわれたことを私たちは知っています。今日一日、言われなき苦しみに苦しみとしても、あなたには主イエスが共におられます。主の側に留まりましょう。

第1章1節~12節(事の起こり)

2004年11月5日(金)

誤解してはなりません。この世では善と悪が対立しているように「神様と悪魔は飽くなき戦いを繰り広げており、この世には神様の領域と悪魔の領域がある」のではないのです。そうではなくて、天地万物を統べ治めておられる神様の御許可なくしては、サタンは一切活動できないのです(12節に注目)。――あなたの苦しみの一切は神様に覚えられています。それどころか、神自ら私たちの苦しみよりももっと深く苦しむために、この世に来てくださいました。それが主イエス・キリストです。このお方と共に今日一日を過しましょう。

第1章13節~22節(事の起こり)

2004年11月6日(土)

明日の主日礼拝に向けて、私たちは主の下へと帰りましょう。「私は裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。」アーメン。

第2章1節~6節(事の起こり)

2004年11月7日(日)

何とも不可解です。全能の父なる神様がサタンに向かってこう言われたのです。「それでは、彼をお前のいいようにするがよい。ただし、命だけは奪うな。」サタンをもその御手の内に治め給う主がこう言われたのです。そしてこのことは、主が「無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている」と言っておられることを考え合わせる時、ますます不可解で説明がつきません。ヨブの身に降りかかってくる試練は罪に対する神罰でも悪い運命でもありません。すべては神の御手の内で起こっています。けれども、なぜこの苦しみが来るのか、全く理由が見当たらないのです。――全き義人にして神を畏れ、悪を避けて生きていた方が苦難の僕となられました。私たちの主イエスです。主はその地上での全生涯、とりわけその終わりにおいて、恐るべき苦しみを味わい尽くされました。そして主は最期「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」と叫んで息を引き取られました。――私たちが説明のつかない苦しみの只中に置かれる時も、この主が共におられます。主は、私たちの苦しみよりももっと深く、陰府まで降って来られた全能の神です。

第2章7節~13節(事の起こり)

2004年11月8日(月)

「彼らは七日七晩、ヨブと共に地面に座っていたが、その激しい苦痛を見ると、話しかけることもできなかった。」私たちの世界には、話しかけることもできない苦難・苦痛があります。それは「神を呪って、死ぬ方がましでしょう」と叫びたくなるほどのものです。私たちは「あなたの苦しみは私にも良く分かります」と簡単には言えないと思います。また、自分自身が苦難の中に置かれる時、私たちは「この苦しみは誰にも分からない」と思うのです。――ヨブのことを真に理解し、本当の隣人になって下さった方がおられます。私たちの主イエス・キリストです。イザヤは主イエスを証ししてこう語りました。「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている。」この方こそ、私たちの救い主、私たちの真実なる王、ヨブを贖う唯一の救い主です(19:25)。

第3章1節~26節(ヨブの嘆き)

2004年11月9日(火)

「やがてヨブは口を開き、自分の生まれた日を呪って、言った。」ヨブの苦しみは自分の生まれた日を呪うに至りました。しかもその叫びは、自らの誕生日の背後にいます神を問題にしているのです。しかしそれが、神への直接的訴えとならないところに、ヨブの苦しみの本領があります。ここに、友人たちが沈黙せずにはおれない苦難の力があります。
「彼の受けた懲らしめによって、私たちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、私たちはいやされた。」十字架の主の巨大な御苦しみのみが私たちを救い、癒します。

第4章1節~21節(ヨブと三人の友の議論一)

2004年11月10日(水)

ヨブと3人の友
重い沈黙を破って口を開いた友人エリファズは、一体何を語っているでしょうか。「考えてみなさい。罪のない人が滅ぼされ、正しい人が絶たれたことがあるかどうか。・・人が神より正しくありえようか。造り主より清くありえようか。」結局彼は、神の正しさを擁護しつつ、ヨブの苦しみの理由を説明してみせているのです。「あなたはこれこれの理由で今苦しんでいるのです。」こういう説明言葉によっては人間は救われません。それは、騒がしいどら、やかましいシンバルに過ぎません。――「主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。」このイザヤ書の御言葉は次のように聴き直すこともできるでしょう。「主は御自分の義の力を誰に示されたことがあろうか」と。神の義の力!それは、神の正しさを説明せず、ただひたすら沈黙して刑場へと向かわれた主キリストに示されました。ヨブの唯一の救い主がここにおられます。そしてこの方は、あなたの救い主、また癒し主です。

第5章1節~27節(ヨブと三人の友の議論一)

2004年11月11日(木)

「私なら、神に訴え、神に私の問題を任せるだろう。」エリファズが言い放ったこの言葉は信仰的に正しい言葉です。しかしヨブを救う言葉ではありません。否、この言葉はヨブを更に深い苦しみへと追い込む言葉です。なぜなら、ヨブの苦しみは神に訴えることができない苦しみであり、神に任せようとしない力がヨブを捕えているのです。更に17節には「見よ、幸いなのは、神の懲らしめを受ける人」とあります。これもまた信仰の真理を語る言葉ですが、ヨブの苦しみに対しては間に合いません。ヨブの苦しみは何としても幸いなどではあり得ないからです。――しかし18節には救いの真理を映し出す言葉が出ます。「彼は傷つけても、包み、打っても、その御手で癒して下さる。」しかしイザヤは更に深めて、自ら苦しむ神の僕を預言しました。即ち、神の僕が現われて、傷つけられ、打たれ、限りを知らない苦しみを味わい尽くされる、と預言したのです。――今日一日、私たちのために苦しみ抜かれた主を思い、その癒しに与り、健やかな歩みをつくりましょう。

第5章27節(ヨブと三人の友の議論一)

2004年11月12日(金)

これが我らの究めた信仰の真理である。これこそ確かだ。だから、君はよく聞いてこれを悟りなさい。ヨブより一段も二段も高い所に立って「君も悟りを得てここまで来なさい」と説いているのです。――人は悟りによっては救われません。「あなたの苦しみの理由は・・」といった説明によって苦しみは癒されません。しかし神は、一切の説明や理屈を度外視したことをなさいました。愛する我が子イエスを十字架につけて死しめたのです。

第6章1節~30節(ヨブと三人の友の議論一)

2004年11月13日(土)

真実の友を求めてヨブは叫びます。「考え直してくれ、私の正しさが懸かっているのだ。」ヨブの真実の友、主イエスが来られます。その明日の礼拝にあなたも招かれているのです。

第7章1節~21節(ヨブと三人の友の議論一)

2004年11月14日(日)

「横たわればいつ起き上がれるのかと思い、夜の長さに倦み、いらだって夜明けを待つ。肉は蛆虫とかさぶたに覆われ、皮膚は割れ、うみが出ている。」十字架の主は、このヨブの所に、私たちの所に来て下さった神です。主は地獄にまで降られた私たちの神です。

第8章1節~22節(ヨブと三人の友の議論一)

2004年11月15日(月)

ビルダドは、灼熱地獄と化したヨブの苦しみを知らずに「君は神に対して何という言葉を吐くのかね」と諫めます。また、ヨブの息子たちの死を「神に対する過ちのゆえ」と断定しています。そして、ヨブ本人に対してはこう語るのです。「ヨブよ、神は正義を決して曲げられる方ではない。だから、君が本当に正しいのなら、神は必ず助け出して下さるだろう」と。――神の正しさを盾に、息子たちを断罪するビルダドとは一体何者でしょう。彼は<罪なき者に降りかかる苦しみ(義人の苦難)>を知りません。「息子たちがああなったのは彼らの罪のためであり、ヨブよ、君が本当に正しいのならこの様な苦しみはないはずだ!」それがビルダドの主張です。――主の弟子たちが道端に盲人を見出し「これは本人の罪のためか、それとも両親の罪のためか」と問うた時、主はお答えになりました。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」これは苦難に対する説明ではありません。主の大いなる宣言です。「神の業がこの人に現れるためである!」この主の一言を信じて、今日一日を歩みましょう。

第9章1節~24節(ヨブと三人の友の議論一)

2004年11月16日(火)

ヨブは神が天地の造り主であられることを十分承知しています。力に訴えても神に勝てず、正義に訴えても誰も証人となってくれる者はなし。そこで遂にヨブは「神は無垢な者も逆らう者も、同じように滅ぼし尽くされる」と言うに至り、こう叫びます。「罪もないのに突然、鞭打たれ殺される人の絶望を神は嘲笑う。この地は神に逆らう者の手にゆだねられている。神がその裁判官の顔を覆われたのだ。ちがうというなら、誰がそうしたのか。」このヨブの叫びはキリスト預言の叫びではないでしょうか。ポンテオ・ピラトの下に苦しみを受け、十字架に付けられた主イエス。この方のみがヨブの救い主、私たちの主です。

第9章25節~35節(ヨブと三人の友の議論一)

2004年11月17日(水)

余りにも凄過ぎるヨブの言葉です。神と戦い、神をも裁きの座に連れ出そうとするヨブの言葉です。「このように、人間ともいえないような者だが、私はなお、あの方に言い返したい。あの方と共に裁きの座に出ることができるなら、あの方と私の間を調停してくれる者、仲裁する者がいるなら、私の上からあの方の杖を取り払ってくれるものがあるなら、その時には、あの方の怒りに脅かされることなく、恐れることなく私は宣言するだろう。私は正当に扱われていない、と。」――かつて、このヨブ以上に義人の苦難を問題にして神と戦った人がいるでしょうか。ここまで大胆に神に迫り得る人間がいるでしょうか。このヨブの言葉には驚きの余り言葉を失うほどです。――新約は、神とヨブの間を調停してくれる方、真の仲裁者の到来を告げています。神の義を真実に打ち立てつつ、私たちにも義を与え給う主イエス・キリストです。この方の執り成しを得て、今日を生きましょう。

第10章1節~22節(ヨブと三人の友の議論一)

2004年11月18日(木)

現在の苦しみが骨髄に徹した時、ヨブは自らの生まれた日を呪います。しかしそれは単なる呪いではありません。ヨブは神が自分を造ったことを知っており、その神に対して訴えているのです。「御手をもって私を形づくって下さったのに、あなたは私を取り巻くすべてのものをも、私をも、呑み込んでしまわれる。・・なぜ、私を母の胎から引き出したのですか。私など、だれの目にも止まらぬうちに、死んでしまえばよかったものを。」そして更にヨブは、今正に自分は地獄に降ろうとしていると語ります。「二度と帰って来られない暗黒の死の闇の国に、その国の暗さは全くの闇で、死の闇に閉ざされ、秩序はなく、闇がその光となるほどなのだ。」――あの聖夜に、馬小屋の飼い葉桶の中に誕生された方は、最期、神に呪われて死んで逝かれました。「木にかけられた死体は、神に呪われたものだからである。」主はヨブよりもっと深く暗黒へと降られました。それは、主が神に呪われることによって、私たちに神の祝福が与えられるためです。

第11章1節~20節(ヨブと三人の友の議論一)

2004年11月19日(金)

「もし、あなたも正しい方向に思いをはせ、神に向かって手を伸べるなら、また、あなたの手からよこしまなことを遠ざけ、あなたの天幕に不正をとどめないなら、その時こそ、あなたは晴れ晴れと顔を上げ、動ずることなく、恐怖を抱くこともないだろう。」ここに宗教改革者たちが命がけで戦った<行為義認の教え>があります。それは即ち「もしあなたがこれこれの事をすれば、その苦しみから救われます」と高みから忠告することです。そして私たちは、実にしばしばこれに類する忠告を困窮者に対してしてしまうのです。また私たちは、自分が苦しみの只中に置かれる時、この様な忠告によっては救われないと知ってもいるのです。――「ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。」主イエスが私たちの義となって下さったのです。

第12章1節~6節(ヨブと三人の友の議論一)

2004年11月20日(土)

このヨブの呻きと叫びを真正面から受け止め、自ら低く降って人々の物笑いの種となり、よろめく足となられた神がおられます。それが私たちの神、主キリストです。

第12章7節~25節(ヨブと三人の友の議論一)

2004年11月21日(日)

ヨブの友人が説く神は因果応報の神です。義人を祝福し、悪人を罰する神です。けれどもヨブが直面している神は世界を御自分の体操場としておられ、独占的に活動する神です。指導者たちの判断を狂わせ、国の行く末を狂わせたかと思えば、人間世界の暗黒を明るみに出し、死の闇を光に引き出されるのです。――主なる神は、私たちの<思考の枠踏みの中>に納まるような方ではありません。なぜ神はこの様なことをなさるのか。時として、それが私たちには分からないのです。けれどもそのような時、私たちが見つめるべきは<主イエスにおいて御自身を現された神>です。主は唯一無比の義人であられたのに、悪人の手にかかり、死の闇に呑み込まれた方です。そしてこの方は、その死の暗黒から復活されました。ここに、揺るぎなき神の赦しと愛が啓示されています。今週一週間、不可解に直面しつつも、十字架と復活の主を仰ぎ、健やかで確かな歩みを作って行きましょう。

第13章1節~28節(ヨブと三人の友の議論一)

2004年11月22日(月)

本章のヨブは詩編102編の作者であるかのようです。以下の詩を深く味わいつつ、ヨブと共に主に<叫びの祈り>をささげましょう。「主よ、私の祈りを聞いて下さい。この叫びがあなたに届きますように。苦難が私を襲う日に/御顔を隠すことなく、御耳を向け/あなたを呼ぶとき、急いで答えて下さい。私の生涯は煙となって消え去る。骨は炉のように焼ける。 打ちひしがれた心は、草のように乾く。私はパンを食べることすら忘れた。私は呻き/骨は肉にすがりつき 荒れ野のみみずく/廃虚のふくろうのようになった。屋根の上にひとりいる鳥のように/私は目覚めている。敵は絶えることなく私を辱め/嘲る者は私によって誓う。私はパンに代えて灰を食べ/飲み物には涙を混ぜた。あなたは怒り、憤り/私を持ち上げて投げ出された。私の生涯は移ろう影/草のように枯れて行く。主よ/あなたはとこしえの王座についておられます。御名は代々にわたって唱えられます。どうか、立ち上がって/シオンを憐れんで下さい。恵みのとき、定められたときが来ました。あなたの僕らは、シオンの石をどれほど望み/塵をすら、どれほど慕うことでしょう。」

第14章1節~22節(ヨブと三人の友の議論一)

2004年11月23日(火)

儚い命でしかないこの私を、なぜ神は打たれるのか。切り倒された木は新芽を吹くが、倒れ伏した人間は立ち上がることがない。それゆえ、私は死してこの苦役からの解放を待ち望む。――死を望むに至ったヨブは、しかし、その暗闇と混乱の中にあって、一筋の希望を失ってはいません。13節「どうか、私を陰府に隠して下さい。あなたの怒りがやむときまで、私を覆い隠して下さい。しかし、時を定めて下さい。私を思い起こす時を。」このヨブの<叫びの祈り>を神が聴き入れられたのが、主キリストの十字架と復活です。十字架の主は、陰府に降り、三日目に死人の中より甦られました。ヨブの主として。

第15章1節~35節(ヨブと三人の友の議論二)

2004年11月24日(水)

本章の主題は“知恵”です。エリファズはヨブの言葉を聞いているうちに我慢がならなくなりました。「淀みなく流れ出るあなたのその言葉は、知恵ある言葉のようにも聞こえるがそうではない。神へと冒涜である。それに比べて、私たちの中には白髪の老人もいる。」即ち彼は<経験豊かな人間の知恵>に基づいて語っているのです。そして、賢者の知恵によってヨブを見るならば、その一切の不幸は神への反逆と傲慢の故なのです。何と暴力的で、弱り果てた葦を踏み付けにする<賢者の知恵>でしょうか。――主よ、今日一日、人間の知恵によって人を裁くことなく、あなたの御心と眼差しの下で生活させてください。

第16章1節~22節(ヨブと三人の友の議論二)

2004年11月25日(木)

神は野獣のように襲い掛かり、私を餌食として怒りを表された。かつての幸福は一瞬にして奪い去られ、神は戦士のように挑みかかり、私の皮膚を次々に破壊する。そう叫びつつ語るヨブの眼差しは、なお天に注がれます。そして、今ここに至ってヨブは驚くべき言葉を口にします。「このような時にも、見よ、天には私のために証人があり、高い天には私を弁護して下さる方がある。私のために執り成す方、私の友、神を仰いで私の目は涙を流す。」これは何という告白でしょうか。ヨブを不幸に陥れ、その体を打ち続け、猛獣のように襲い掛かってきているのは神です。その神に対して「自らの手に不法なし」と訴え続けてきたのがヨブです。しかし、そのヨブが今「私を弁護して下さる方が天にある」と言うのです。「私のために執り成す方、私の友、神を仰いで私の目は涙を流す。」――ヨブは十字架に付けられた御子なる神キリストを、聖霊の導きによって、幻の御姿として仰ぎ見、涙を流したのです。私たちはこのお方が既に来、再び来られることを知っています。

第16章18節~22節(ヨブと三人の友の議論二)

2004年11月26日(金)

昨日に引き続きもう一度本日の聖書箇所を味わいましょう。ヨブは怒りの神の下で、自分を弁護してくださる神に出会いました。しかしこの両者は矛盾しません。両方とも神様の実相です。しかし私たちは、試練の只中にあって、ただひたすら<我が弁護者キリスト>を仰がねばなりません。この方の下に<罪の贖いの勝利>と<永遠の平安>があります。

第17章1節~16節(ヨブと三人の友の議論二)

2004年11月27日(土)

暗黒へと降るヨブを救い得る者はあるか。聖書は陰府にまで降るキリストを指差し、「この方だけがヨブを救い得る」と語ります。そして主イエス・キリストは、私たちの主でもあられます。私たちが絶望の暗黒へと降る時、見よ、そこに主が共にいます!

第18章1節~21節(ヨブと三人の友の議論二)

2004年11月28日(日)

ビルダドは「まず理解せよ、それから話し合おうではないか」とヨブに要求します。ヨブの苦しみは、理解し話し合うことによって乗り越えられるものではない、ということを知らずに。――また、2節には「あなたがたは」という主語が欠けていると言われます。即ちヨブを含めた神に逆らう「あなたがた」という軽蔑の意がここにあるのです。――義人ヨブの苦しみは話し合いで解決しません。義人イエスの苦しみによってのみ癒されるのです。

第19章1節~29節(ヨブと三人の友の議論二)

2004年11月29日(月)

神と死闘し続けてきたヨブはこう告白するに至りました。「このような時にも、見よ、天には私のために証人があり、高い天には私を弁護して下さる方がある。私のために執り成す方、私の友、神を仰いで私の目は涙を流す。」ヨブを不幸に陥れ、その体を打ち続けてきたのは神です。しかし、その神に向かって「私のために執り成す方、私の友、神を仰いで私の目は涙を流す」とヨブは告白したのです。――本日の聖書箇所でヨブは更にこう預言します。「私は知っている。私を贖う方は生きておられる。ついには塵の上に立たれるであろう。」先には天を仰いで「私のために執り成す方」と告白し、今度はその方が「ついには塵の上に立たれるであろう」と言います。これは一体どういうことでしょうか。まるでヨブは、クリスマスの聖夜を知っており、ゴルゴタの丘に立ち会っている者のようです!――ヨブを贖い得る唯一のお方は、天より降り、この地上に、しかも塵の上に立たれるお方。それは、我らの主、ゴルゴタの丘の上に立たれた、十字架の主キリストです。

第20章1節~29節(ヨブと三人の友の議論二)

2004年11月30日(火)

ツォファルはヨブの叫びを聴き取ることができません。彼は言います。「あなたの説は私に対する非難と聞こえる」と。ヨブが訴えているのは「説」ではなく「抑え得ない叫び」です。それなのに、彼はその叫びを机上の議論であるかのように受け取っているのです。ではツォファル自身の説は何でしょうか。それは「神に逆らう者の喜びは、はかなく、神を無視する者の楽しみはつかの間にすぎない」というものです。しかしこの説によってはヨブの矛盾と呻きは解決されません。ヨブの叫びは尤もらしい説明によっては癒されないのです。――御子キリストは「あなたの苦しみの理由は・・」などと説明される方ではありません。ヘブライ人への手紙が告げる次の御言葉を深く味わいましょう。「キリストは肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。」

第21章1節~6節(ヨブと三人の友の議論二)

2004年12月1日(水)

園児たちに母親の似顔絵を書かせたところ驚くべき絵を描いた、という話を聞いたことがあります。小さな耳に対して不釣合いなほど大きな口の母親を描いたというのです。私たちすべてにとって無関係でない話だと思いました。――ヨブは訴えています。「どうか、私の言葉を聞いてくれ。聞いてもらうことが私の慰めなのだ」と。――今日一日、このヨブと同じ叫びの人があなたの側にいるのかも知れません。また、私たち自身が、ヨブと同じ叫びを抱くのかもしれません。主よ、どうか私たちを憐れみ、今日、私たちの只中に真の慰め主を送って下さい。私たちの心の深奥までも探り知ってくださる聖霊を。

第21章7節~34節(ヨブと三人の友の議論二)

2004年12月2日(木)

先にツォファルは「神を無視する者の楽しみはつかの間にすぎない」と述べました。しかしヨブはそれに反する現実のあることを知っています。なぜ悪人は栄え、義人は苦しむのか。それがヨブの中から迸り出る問いです。そして更に彼は神に逆らう人間の悪ふざけを語ります。「彼らは神に向かって言う。『ほうっておいて下さい。あなたに従う道など知りたくもない。なぜ、全能者に仕えなければならないのか。神に祈って何になるのか。』」この悪ふざけは今日も現実に見られるものです。――ハイデルベルク信仰問答はその問52で次のように告白しています。問:「生ける者と死ねる者とを審」かれるためのキリストの再臨は、あなたをどの様に慰めるのですか。答:私があらゆる悲しみや迫害の中でも頭を上げて、かつて私のために神の裁きに自らを差し出し、すべての呪いを私から取り去って下さった、まさにその裁き主が天から来られることを待ち望むように、です。この方は御自分と私の敵をことごとく永遠の刑罰に投げ込まれる一方、私を、すべての選ばれた者たちと共にその御許へ、すなわち天の喜びと栄光の中へと迎え入れて下さるのです。

第22章1節~30節(ヨブと三人の友の議論三)

2004年12月3日(金)

悪因悪果・因果応報の教理がエリファズの主張です。そしてその教えを携えて、最後彼が言うことは「神に従い、神と和解しなさい。そうすれば、あなたは幸せになるだろう」です。「神と和解しなさい。あなたには罪があるから。」しかしヨブの問題は、“罪ゆえ”ではなく“苦しみゆえ”に神と格闘せずにおれない、という問題なのです。そして、そのヨブの苦しみは罪に対する神罰ではないのです。――「神様、何故ですか」と苦しむ者に主イエスは臨んで下さいます。すべての苦しみ悲しみ嘆きを経験された主が。

第23章1節~17節(ヨブと三人の友の議論三)

2004年12月4日(土)

「どうしたら、その方を見いだせるのか。おられるところに行けるのか。その方に私の訴えを差し出し、思い存分私の言い分を述べたいのに。」――ヨブが叫び求めたお方は、教会の主にいますキリストです。明日この方は“教会で”あなたに出会ってくださいます。

第24章1節~25節(ヨブと三人の友の議論三)

2004年12月5日(日)

ヨブは、この世の矛盾(神の義が貫かれていない現実)に目を向け、これを指摘します。地境を移し、隣人の家畜を奪い取る者がいる。孤児のロバは連れ去られ、やもめの牛が質草に取られる。しかし悪は裁かれず、貧者の生活はなお過酷を極めている。・・光に背く者たちがいる。彼らは夜行動物で夜自らの欲望を満たす。なぜこの様な悪が光なる主の御前に存在し続けるのか。・・あなたがたは言う。「罪人は裁かれて速やかに消え去り、権力者の栄えも同様である」と。しかし実際はそうなっていないではないか。それがこの世の矛盾であり現実である。――主イエスは言われました。「義に飢え乾く人々は幸いである、その人たちは満たされる」と。永遠なる神の御子が謙って人となり、貧しくなられ、人々の手によって裁かれ侮られ、十字架刑へと殺害されていく。これ以上に大いなる矛盾は世に存在しません。しかし福音は「このお方の死に、罪人を裁き同時に贖う<神の義>が現れた」と宣言するのです。そしてこのお方は、終わりの日に再臨され、生者と死者とを審かれます。神の義を最終的に明らかにするために。――今週一週間、世の矛盾に苦しむ時、主の謙りを思い起こしましょう。神の義が完成される主の日を待ち望みながら。

第25章1節~第26章14節(ヨブと三人の友の議論三)

2004年12月6日(月)

25章はなぜこれ程短いのか。ビルダドは「これ以上語っても無駄だ」と思ってか、神の絶対主権を言い放って口を噤みました。そして26章からは暫くヨブの独白が続きます。――それにしても26:2のヨブの言葉は痛い言葉です。「あなた自身はどんな助けを力のない者に与え、どんな救いを無力な腕にもたらしたというのか。」どんなに信仰的に正しく力強い言葉であっても人を助けない、ということがあり得ます。「たとえ山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ無に等しい」との御言葉が思い起こされます。ビルダドの言い放った神の絶対主権はヨブを助け得る言葉ではないのです。コロサイ4:6「いつも、塩で味付けされた快い言葉で語りなさい。そうすれば、一人一人にどう答えるべきかが分かるでしょう。」塩は命に不可欠であり、腐敗を防ぎ、良き味付けを与えます。今日一日、聖霊の助けにより、塩で味付けされた快い言葉を語ることができますように。

第27章1節~23節(ヨブと三人の友の議論三)

2004年12月7日(火)

ヨブの姿を見ていてふと不思議に思うことがあります。この人はおよそ人間として耐え得ない苦しみの只中にあって、執拗に神に訴えはするが、なぜか神から離れることがない、と。この人には不思議な力が働いていて、神に向かって強烈な言葉を発しますが、神の元を去ることがないのです。そしてそのヨブが問いかけています。「災いが彼に臨む時、・・全能者によって喜びを得、常に神を呼び求めることができるだろか」と。私たちは答えます。「否」と。しかし聖霊が私たちを支えて下さるなら、私たちのような者でも神から永遠に離れ去ってしまうことはあり得ません。聖霊に支えられて私たちは、喜びの時も、苦しみ悲しみの時も、「アッバ、父よ」と全能者に叫ぶことができるのです。

第28章1節~28節(神の知恵の賛美)

2004年12月8日(水)

「知恵の賛歌」と呼ばれる章です。ヨブは言います。人間は金銀宝石を探し出す術は知っているが、知恵はどこに見いだされるのか。深い淵も「私の中にはない」と言い、海も「私の所にもない」と言う。滅びの国や死が「それについては耳にしたことはある」と辛うじて答えるのみ。そこでヨブは最後に語ります。「その道を知っているのは神。神こそ、その場所を知っておられる」と。――「主を畏れ敬うこと、それが知恵、悪を遠ざけること、それが分別。」これが本日の中心聖句です。主を畏れ敬うこと、そのことの一つは「私の生も死も主の御手の内にある」と告白しつつ生きることです。私の命と人生の主人は、私ではなく主なる神様である。そう信じて主を仰ぎ、主の御前に生きることです。今日一日、主を畏れ敬う知恵に生き、悪を遠ざける分別に生きましょう。

第29章1節~25節(ヨブの嘆き)

2004年12月9日(木)

主の試練が襲ってくる以前、ヨブがどういう人物であったかが生き生きと描き出されています。ヨブは慈しみと正義とをもって社会福祉活動に勤しみ続け、不当な苦しみを受けている者のためには進んで法廷に立つこともありました。彼の言葉は人々を大いに慰め、多大な尊敬を受けていました。民の指導者たちからも、一目も二目も置かれる存在でした。しかし5節の言葉が本章全体を覆っています。「あのころ、全能者は私と共におられ、私の子らは私の周りにいた。」しかし、今はいない・・、というヨブの慨嘆が本章全体を覆っています。――今ヨブは「全能者は私を離れ去り、光は既に過ぎ去った」と言います。しかし、あの聖夜、とこしえの光は暗黒に来られました。それが、私たちの主イエスです。

第30章1節~19節(ヨブの嘆き)

2004年12月10日(金)

ヨブの精神的肉体的苦痛はその極に達しました。「夜、私の骨は刺すように痛み、私をさいなむ病は休むことがない。病は肌着のようにまつわりつき、その激しさに私の皮膚は見る影もなく変わった。」――我らの神イエスは、精神的肉体的苦痛を徹底的に引き受け、味わい尽くされた神です。イザヤ書53章の主が、今日、あなたと共におられます。

第30章20節~31節(ヨブの嘆き)

2004年12月11日(土)

「私は幸いを望んだのに、災いが来た。光を待っていたのに、闇が来た。」そう叫ぶヨブの所に、主はあの聖なるクリスマスの夜、とこしえの光として来られたのです。

第31章1節~40節(ヨブの嘆き)

2004年12月12日(日)

ヨブ記の大前提は、ヨブは「無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きていた」ということでした。そして本章でヨブは<思いつく罪の可能性>を具体的に取り上げると共に<自らの正しさ>を繰り返し訴えています。「罪を犯さなかった」という消極的側面のみならず「他者に対する愛を怠ることがなかった」という積極的側面をも確認します。目や手の潔白、奴隷やはしためへの配慮、弱者への正義と愛、財産により頼まない信仰、相手の不幸を喜ばず、神の御前に罪を隠蔽しないこと。そしてそれら全ては「神に私の潔白を知っていただきたい」との一語に集約されるのです。――私たちは「自分はどうぜ罪人なのだ」と開き直ってはならないと思います。神の御心に適う事とそうでない事に対して目を覚ましている必要があります。しかし、それは私たちにとっては神の御前に義を獲得するために為すことではありません。既に主の十字架によって罪赦された罪人として、神の御心が何であるかを求めつつ、日々歩んでいくのです。聖書の御言葉に聴き従いながら。

第32章1節~22節(エリフの言葉)

2004年12月13日(月)

いよいよエリフの登場です。彼は四人の議論に立会い、ヨブの独白を聞いてきましたがもはや耐え切れません。ヨブは神より自分の方を正しいと主張しているではないか。しかも三人の諸先輩方はヨブに対して適切な反論ができず、沈黙するに至ってしまった。彼は今や「新しい酒で張り裂けんばかりの革袋」の如く、自分の中に溢れ出て来る言葉を抑えることができないのです。――それにしても6~9節の彼の言葉には聖書的真理が秘められています。即ち<人に真の知恵を授けるのは全能者の息吹(聖霊)であって、生きた年数によるのではない>という真理です。使徒パウロがテモテに語った言葉が思い起こされます。「あなたは、年が若いということで、だれからも軽んじられてはなりません。むしろ、言葉、行動、愛、信仰、純潔の点で、信じる人々の模範となりなさい。」――自分の人生経験・知恵・力のみにより頼む生き方は、聖霊を知らない<古い肉なる人間の生き方>です。今日一日、聖霊の働きを畏れかしこみつつ、主の恵みの御支配の中を歩みましょう。

第33章1節~33節(エリフの言葉)

2004年12月14日(火)

エリフは他の三人とは違った仕方でヨブに語りかけます。ヨブを頭ごなしに罪人と断定はせずに「神の不思議な語りかけに耳を傾けよ」と呼びかけます。神は夢の中で語りかけ、苦難の只中で語りかけておられる、というのです。そしてエリフは<神の御前にヨブを執り成してくれる御使い>の存在を語ります。その御使いはヨブを憐れんで「この人を免除し、滅亡に落とさないで下さい。代償を見つけて来ました」と言ってくれる、というのです。ここで「代償」とは、ヨブの苦しみが神の御前に十分支払われることを意味します。そしてその「代償」によってヨブは滅亡を免れる、と言っているのです。――私たちにとって唯一の執り成し手は主イエスであり、この方は神の御前における「代償」ソノモノとなって下さった方です。エリフの呼びかけは、その主イエスを予感させるような呼びかけですが、果たしてヨブはこれをどう受け止めるでしょうか。

第34章1節~15節(エリフの言葉)

2004年12月15日(水)

残念です。人間の限界です。知恵者と見えたエリフもやはり<因果応報の教え>の中に留まっています。彼は言います。「神は人間の行いに従って報い、おのおのの歩みに従って与えられるのだ」と。それは「ヨブの苦しみはヨブの悪に対する報いであり、神に不正などない」との主張です。――かつて弟子たちが主イエスに尋ねたことがあります。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、誰が罪を犯したからですか。本人ですか。それとも両親ですか」と。すると主は答えられました。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」ここに<因果応報>を完全に乗り越えておられる恵みの主がおられます。

第34章16節~37節(エリフの言葉)

2004年12月16日(木)

前章では配慮しつつ語っていたエリフも、本章に入って急に語調がきつくなります。彼は要するに<神の公義>を述べ続けるのです。神はえこひいきせず、王をも貧者をも正しく裁かれる。権力者も一夜にして死の闇に落ち、貧者の叫びは聞かれる。ヨブよ聞け、罪を告白した者に対する報いを決めるのは、その者ではなく公義を行う神なのだ。――私たちには<神の側に立って人を裁く>ということがあります。それがエリフの罪です。十字架の主は、神の公義を少しも曲げずに貫きつつ、私たちの側に徹底的に立って下さる方です。

第35章1節~16節(エリフの言葉)

2004年12月17日(金)

エリフは酷い事を言います。「あなたが過ちを犯したとしても、神にとってどれ程のことだろうか。・・あなたが正しくあっても、それで神に何かを与えることに」なるだろうか。神が人間を超越しておられることを語る余り、人間の善悪をも微動だにしない神を語ってしまっています。これでは、私たちのあらゆる営みと人生は最終的に虚無に服するより他ありません。――今日一日、神は父として、あなたの心と行いを顧みておられるのです。

第36章1節~33節(エリフの言葉)

2004年12月18日(土)

エリフは神の深遠を説き聞かせようとしています。しかし、その彼の神は因果応報の偉大な神であり、ヨブに向っては「悪を避け、その苦難から脱出せよ」と命令するだけです。私たちの主は、律法の呪いから脱出できないでいる私たちの所に来て下さった神です。

第37章1節~24節(エリフの言葉)

2004年12月19日(日)

人間を圧倒する自然現象の背後に神が現臨しておられる。そこに神の御声が轟いている。その神の驚くべき御業について熟考せよ。そうエリフはヨブに語りかけます。神は自然現象によって「人の手の業を全て封じ込め、全ての人間に御業を認めさせられる。」「懲らしめのためにも、大地のためにも、そして恵みを与えるためにも、神はそれを行わせられる。」そしてエリフは言うのです。「自然を支配する神の御業を人間は見極めることができない」と。また「そのような驚くべき神に対して訴訟を起こすことなど誰ができようか」と。そして最後こう告げます。「今、光は見えないが、それは雲のかなたで輝いている。やがて風が吹き、雲を払うと、北から黄金の光が射し、恐るべき輝きが神を包むだろう。」このエリフの言葉がヨブの心にどう響いたか、それについては何も記されていません。けれども<ヨブの沈黙>は、エリフの言葉が何らかの形でヨブの心に鳴り響いたことを暗示しているのかもしれません。「今、光は見えないが、それは雲のかなたで輝いている。やがて風が吹き、雲を払うと、北から黄金の光が射し、恐るべき輝きが神を包むだろう。」あなたに対する、希望の光を告げている言葉です。

第38章1節~41節(主なる神の言葉)

2004年12月20日(月)

遂に神は長い沈黙を破られました。主は嵐の中から現れ「私はお前に尋ねる、私に答えてみよ」とヨブに迫ります。天地創造の時、お前はどこにいたのか。天地創造の次第をお前は知っているのか。お前は朝に命じ、曙に役割を与えたことがあるか。お前は行ったことがあるか。海の源、死の闇の門、大地の果て、光や暗黒の住処に。お前は雪や霰の倉を見たことがあるか。東風と豪雨と稲妻の道はどこか。大地を潤し、露や霰や霜を産むのは一体誰か。お前は星々を引き締めたり緩めたりできるか。雌獅子や烏を養育しているのは一体誰か。森羅万象を秩序を持って支配し、これを恵みによって保持しているのは誰か、答えてみよ。――神はヨブの問いに対して直接答えてはおられません。「この苦しみは何故か」と問うヨブに対して、徹底的に神中心の世界が啓示されます。自分の苦しみだけが大きく見えていたヨブに、神の圧倒的巨大さ・深さ・広さが示されます。ヨブは自己の苦しみへと執着から既に解かれ始めているのです。

第39章1節~第40章2節(主なる神の言葉)

2004年12月21日(火)

神は御自分の全能にかけてヨブに次々と問い迫ります。お前は山羊や雌鹿が子を産み落とす時を知っているか。野ろばも野牛も、お前の自由にならないではないか。駝鳥の無知は何故か。馬に力を与えたのはお前か。鷲の飛翔はお前が命じたからか。そして主は仰せになります。「全能者と言い争う者よ、引き下がるのか。神を責めたてる者よ、答えるがよい。」圧倒的な神の愛の全知が動物にも及んでおり、ヨブはその神の愛の御支配について何一つ知らないのです。「空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。」

第40章1節~32節(主なる神の言葉)

2004年12月22日(水)

本章に宣言されているのは<全能者の圧倒的威厳とその御力>です。その神の威厳と御力がヨブの口を封じ始めています。けれども私たちは、新約聖書から更に驚くべき知らせを聞くことができます。「圧倒的威厳を持った全能者が馬小屋の飼い葉桶に嬰児となって来られた」との知らせです。この嬰児の貧しさと弱さの中に全能者の圧倒的威厳が隠されているのです。――更に使徒パウロは「十字架の言葉は神のダイナマイトのような御力」と語りました。ヨブを圧倒した全能者の威厳と御力は、十字架の主において余すところなく啓示されたのです。あなたの罪は赦された。・・私たちはこのお方の御前に黙するより他ありません。

第41章1節~26節(主なる神の言葉)

2004年12月23日(木)

「レビヤタン」は全く太刀打ち不能な巨大な怪物です。その桁外れに強靭な肉体。剛気ほとばしり出る表情。レビヤタンには鉄器も歯が立ちません。主は今何故にレビヤタンのことをヨブに向って語られるのか。それは「このレビヤタンも一介の被造物に過ぎない」と宣言するためです。「ましてヨブよ、お前は何者か」と主は言われるのです。――ヨブ記が最後に宣言するのは<神は全宇宙の創造者であり主権者である>との事実です。星々が配置された天空、果てしなく続く大地、動物や植物そしてレビヤタンまでも主の作品であり、主の支配下にあります。そして主は、それら一つ一つを配慮と愛に満ちた仕方で保ち、養い、摂理をもって導いておられるのです。その主に向って戦いを挑むとは、ヨブよ、お前は一体何者なのか。――ヨブの悔い改めは、自分の苦しみをも打ち砕く、全能者の圧倒的迫りから始まります。天地の造り主、全能の神の御前に、ヨブは己の小ささを思い知らされ、己の分際を弁え始めているのです。

第42章1節~6節(主なる神の言葉)

2004年12月24日(金)

「神の経綸」とは<この世界と歴史に活ける神が臨み働いておられる>ということです。ヨブは今、その神の経綸について何一つ知らずに、自分の苦難の問題だけを一方的に神に訴えていたことを深く悔い改めているのです。しかし私たちはヨブ以上に、驚くべき「神の経綸」を知らされています。神が自ら人と成ってこの世に臨み来たり、歴史の只中を歩まれ、人々に侮られて十字架上に葬られて行かれた。この十字架と復活の主に、神の御経綸が輝いています。

第42章7節~17節(結び)

2004年12月25日(土)

主は「三人の友人は正しく語らなかった」と言われ、ヨブの祈りを受け入れられました。三人の友人は罰から赦免され、ヨブの苦難は完全に回復され、主の祝福が満ち溢れました。主イエスの下にある赦しと癒し、そして大いなる祝福です。アーメン。主よ、感謝します。